2016/03/08

[避難者の今(中)]別々の決断、家族二つに 「いつかもう一度、4人で」/秋田

2016年3月8日 魁新報
http://www.sakigake.jp/p/special/16/sorezore/article_04.jsp

「当初は半年ぐらいで帰れると思った。ここまで長引くとは…」
福島県南相馬市出身の女性(45)がため息をついた。東日本大震災以降、湯沢市に自主避難し、中学2年の長女(14)と市内のアパートで暮らしている。知り合いが少なく、不慣れな雪国生活は一日も早く終わりにしたかった。しかし、東京電力福島第1原発事故の放射線の影響を考えると帰郷には踏み切れなかった。「戻りたいのに戻れない」。そう思いながらの5年間だった。

南相馬では父(71)、母(67)を含め4人暮らし。創業45年になる焼き鳥屋を営んでいた。2011年の震災では津波は免れたが店舗や住宅の食器棚や家具が転倒し、屋根瓦も落下した。さらに、避難先の福島市で原発事故を知り、がくぜんとした。4人は父の出身地である湯沢市へ向かった。「南相馬には当分戻れない。しばらくここで暮らそう」

3月下旬、一家はアパートを借り、長女も小学校に転入した。実家は避難指示区域外だったが、放射線の影響を考えると近づけなかった。

湯沢では女性が心を許せる友人もいなく、気持ちが晴れることもなかった。風土や気質の違いもストレスになり、体調を崩した。「来月こそ帰る」が口癖だった。

父と母は11年12月、帰郷を決めた。焼き鳥屋の再開を求める常連客の声に後押しされた。父は「私たちを待ってくれる人がいるのなら、と思って決断した。原発事故の影響を考えると、娘と孫に『一緒に行こう』とは言えなかった」と振り返る。女性は「湯沢市と放射線量の数値があまりにも違った。長女の将来を思うと帰れなかった」と語る。

帰郷する父と母、帰れない自分と長女。それぞれの決断で家族は二つに分かれた。

震災から間もなく5年。女性は「最初の3年間は毎日が長かった。しかし、長女が中学に進み、卒業までの3年は湯沢で暮らそうと心に決めた。そう考えると精神的にも落ち着き、時間の過ぎるのが早くなった」と話す。長女が卒業する来春以降は、宮城県南部への移住を考えている。「古里には帰れない。けれど両親に万一があれば駆け付けられる場所にいたい」との思いからだ。女性の母は「孫を思えば南相馬で暮らすのはまだ難しい」と理解を示す。

「絶対捨てないで」。長女からそう言われ、大事に取っているものがある。震災当時に長女が履いていた靴だ。女性は「家族が一緒に暮らしていた当時を忘れたくない。そんな気持ちが娘にあるのだろう」と思いやる。

震災当時、長女が履いていた靴。今も大事にしている

母子が暮らした南相馬には、新たな街並みもできつつある。「自分が知っている古里とは景色も人も変わってしまったようだ」と女性。たとえ帰っても、地域に溶け込めるだろうかと不安もある。

「いつかもう一度、一家4人で暮らしたい」。家族の思いは同じだが、「いつか」がいつ訪れるのか、まだ誰にも見えていない。

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