2016/03/09

秋田/何があっても前向きに 笑顔絶やさず、定住決意

2016/03/09 秋田魁新報
http://www.sakigake.jp/p/special/16/sorezore/article_05.jsp

家族全員が集まる日曜日の居間。小学生の3人きょうだいが張り切って宿題に取り組む。「丸付けしよっか」「きょうは上手に書けたね」。福島県広野町から避難してきた秋田市飯島の会社員斉藤秀之さん(31)と智美さん(31)夫妻が、子どもたちに優しく声を掛ける。問題に正解しても、間違っても響く笑い声。避難生活の苦労を、この明るさで乗り越えてきた。

広野町の自宅があるのは、事故を起こした東京電力福島第1原発から南へ約23キロ。避難指示区域となった半径20キロ圏内に近い。夫婦は当時、3、5、6歳の子どもの安全を最優先に考え、いわき市や千葉県に避難した。しかし、事故から4カ月後、秋田市に移り住むことを決めた。同じ東北の中で原発から離れている上、内陸部に比べて大雪の心配もあまりなさそうだというのが決め手だった。

一家は秋田市に縁もゆかりもなかった。だから、生活基盤を安定させるまでが大変だった。秀之さんはハローワークに通う日々が続いた。福島では電子部品の製造会社に勤務。経験した分野で条件に合う求人を探したが、なかなか見つからなかった。

貯金を取り崩して生活する時期が続いたが、夫婦は笑顔を絶やさなかった。智美さんは「私たち夫婦はもともとプラス思考の性格。職が見つからないときも『きっと何とかなる』と信じていた」と振り返る。時には周囲から「被災者は補助金がもらえていいよね」などと言われ、傷つくこともあった。それでも秀之さんはめげることなく、何社もの採用試験に挑んだ。

求職活動を始めて半年後の2012年2月、秀之さんは秋田市のパソコン修理・販売会社への就職が決まった。「福島から家族を連れ、新しい土地に来たのは重い決断だったと思う。その覚悟を仕事に生かしてほしい」。採用担当者の言葉が心底うれしかった。「秋田に来て、初めて自分の居場所を感じた」と秀之さんは振り返る。

生活が軌道に乗り、心から秋田での暮らしを満喫できるようになった。休日には家族で温泉巡りを楽しみ、花火大会や祭りにも出掛ける。子どもはみんな小学校に上がり、今は勉強に遊びに一生懸命。5年近くの間に秋田への愛着は確実に深まった。

一方、祖父母が残る古里広野町への思いは、今も家族5人全員の胸にある。帰省した後は特に、子どもたちが「福島に戻りたい」「おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に暮らしたい」と恋しがる。古里を追われ、人生を狂わされた事実が消えるわけではない。


秀之さんは「子どもの気持ちを考えれば、何が正解だったかは今も分からない」と打ち明ける。それでも、定住の決意は変わらない。「家族5人一緒にいられるなら、何があっても前向きに笑っていたい。自分たちの人生これからだから」




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