2016/03/11

【震災5年】静岡県内避難者の声

2016年3月11日 産経新聞
http://www.sankei.com/region/news/160311/rgn1603110056-n1.html

東日本大震災から11日で5年が経過した。震災直後の平成23年8月に1500人を超えていた県内への避難者は、今月には832人まで減少。多くの人が被災地へと帰還する一方、ふるさとへの思いを持ち続けながらも帰還を諦めて県内での新生活を選択した被災者もいる。あの日から5年。故郷への思いと現在の生活とのはざまで揺れる避難者たちの今を追った。

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◆現実受け入れふるさとへ 佐藤大さん(37)

「いつか福島に帰ることだけは、自分の中でゆるぎなかった」。大きな家具が片付けられ、引っ越しの準備が進む部屋。福島県双葉町から浜松市に一家5人で避難してきた佐藤大さん(37)は、長女が中学校を卒業するタイミングに合わせ、今月下旬に同県いわき市の新居へと向かう。

震災から半年後の時点では、本紙の取材に「双葉のあの風景をもう一度見たい。何年かかっても、帰れるものなら必ず双葉に帰る」と答えた。その半面、震災直前まで福島第1原発で保守作業員をしていたこともあり、心のどこかで「もう故郷には戻れないだろうな」と半ば覚悟を決めていた。帰還困難区域に指定された双葉町の実家は手つかずのままで、この1年は足も遠のいている。

浜松に避難してからは、妻と同級生の3人で任意団体「はままつ・東北交流館」を立ち上げ、同じ立場の避難者を支えることに奔走した。「若い人は順応も早いけど、お年寄りを孤立させたくなかった」。福島や岩手、宮城などから最大で100人以上が避難しており、月に2、3回はイベントで被災地産品の物販や講演会を実施。市からの補助金は1年で打ち切られたが、貯金を取り崩しながら活動を続けた。

転機となったのは、震災から3年が過ぎたころ。震災関連のイベントが減って募金が集まらなくなり、交流館の活動は停滞していた。浜松を離れて新たな生活の基盤を築く避難者も増えており、「一定の役割は果たせた」と交流館の解散を決めた。「交流館に来ていた人たちとは、もうほとんど連絡がつかない。でも、それはみんなが“避難者”を卒業していった証しでもある」と後悔はない。

5年に及んだ避難生活を通じて、自身も「現実を受け入れていくしかない」というポジティブさを身につけた。震災前は仕事一筋で家族との会話も少なかったが、「今は家族が何よりも大事」と胸を張る。新天地となるいわき市では、自宅のガレージに構えたアメリカ車の輸入雑貨店の経営に本腰を入れるつもりで、今月のカレンダーは予定でびっしりと埋まっている。

「浜松にいると『もう5年たった』と思っちゃうけど、福島に帰れば『まだ5年なんだ』と感じるんだろうな」(村嶋和樹)

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◆「帰れない」富士で学習塾再開 堀川文夫さん(61)

「故郷を失った大きな喪失感は今もある。本当の意味で、ここが自分の家とはまだ感じていない」

妻とともに福島県浪江町から富士市に移り住んだ堀川文夫さん(61)は、複雑な胸中をこう明かす。3年前の取材では「浪江にはもう帰れないと思っている」と話していた堀川さん。その思いは今も変わらないままだ。

震災の翌年、故郷で20年以上にわたって経営していた学習塾を、富士市で購入した一軒家で再開した。8畳ほどの“教室”には、浪江時代の教え子から贈られた寄せ書きや写真がいくつも飾られてある。現在の生徒数は25人ほど。夕方になると近所の小、中学生が机を囲み、堀川さんが生徒一人一人が理解するまで丁寧に指導している。

学習塾での指導は、受験対策だけにとどまらない。「将来、何かを切り開いて生きていく強い人間になってほしい」と、授業の合間に自らの震災の体験を語り、災害時の避難方法を指南。夏には1週間の「林間教室」を開き、共同生活を通じて生徒の協調性や自主性を育んできた。「移住直後は引きこもりになったこともあったが、今は子供たちの教育が全ての原動力になっている」と話す。

年に数回、半壊した自宅の様子を見るため浪江町に足を運ぶが、その度に復興への道筋が見えない現状に憤りを感じている。「二度と同じことを繰り返してはいけない」。その強い思いから、放射能の怖さや故郷を追われた避難者の苦しみを伝える講演活動も県内各地で続けてきた。

今は悲壮感より使命感の方が強い。「日本が置かれた現状に対し、自分なりに立ち向かってきた。これからも故郷や子供たちの未来のために闘い続けたい」(広池慶一)


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◆生活不安も子供のため帰還 林ゆかりさん(30)

「子供のために避難したのですが、子供のために福島に戻ります」。林ゆかりさん(30)は今月上旬、震災直後から5年近くを過ごした浜松市の市営住宅を引き払い、夫の知宏さん(32)、長女の美優ちゃん(7)、次女の聖桜ちゃん(3)と4人でふるさとの福島県南相馬市に帰還した。

震災発生時は両親と夫、長女との5人暮らし。自宅は津波の被害を免れたものの、「放射能が子供に与える影響が怖かった」ため、当時2歳の美優ちゃんを連れて浜松市に避難した。見知らぬ土地での幼子との2人きりでの生活は寂しく、孤独だった。家族と離れたことが何よりつらかったが、被災地で仕事に、復興に、奮闘する夫に、「避難してほしい」とは言い出せなかった。

そして、ほどなくして妊娠に気づく。「本当に寂しかったけれど、上の子とおなかの子のため、と自分に言い聞かせていました」

そんな避難生活も震災から1年4カ月後に知宏さんが福島を出て一緒に暮らせるようになったことで大きく変わった。見違えるほど積極的になれたし、美優ちゃんも幼稚園に入り、ダンスを習うなど、新しい経験を積んだ。「浜松の人たちには、受け入れて歓迎してもらい、きめ細かく支援してもらった」と感謝する。

それでも帰還するのは、両親を含めた家族全員が再び一緒に暮らすことを最優先に考えたから。震災後に生まれた聖桜ちゃんは福島の生活を知らない。いくらよくしてもらってもやはり浜松は仮住まいであり、仮住まいが子供の故郷になることに抵抗感があった。

「戻れるのはうれしい半面、放射能にも生活面にも不安は尽きません」。美優ちゃんが通う予定の小学校は1学年が2クラスしかなく、子供たちが外で遊ぶことはほとんどないと聞く。福島の様変わりは覚悟しているが、思いは複雑だ。(田中万紀)

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