2016/03/09

看護学科4年22歳仕事は、古里は…揺れる心

毎日新聞2016年3月9日
http://mainichi.jp/articles/20160309/k00/00e/040/198000c

福島で被ばく問題と向き合う−−。福島県浪江町出身で日本医療科学大学(埼玉県)看護学科4年、三瓶恵美(さんぺい・めぐみ)さん(22)はこの春、放射線災害時の医療やケアを専門的に学ぶため、福島県立医科大大学院の門をくぐる。高校2年生の時、東京電力福島第1原発事故が起き、古里は帰還困難区域に。傷つき、悩みながら進路を手探りする5年間だった。【杉山雄飛】

昨年8月、福島県川内村の山間部にあるバーベキュー場。被ばく医療について学ぶ大学生向け6泊7日のセミナーでの懇親会だった。日が暮れて、川のせせらぎの音が心地よい。三瓶さんは、講師の一人の長崎大大学院助教の折田真紀子さん(28)に思い切って話しかけた。「福島に帰っても何ができるか分かりません」

折田さんは長崎大が事故後に川内村に派遣した保健師で、土壌などの放射能汚染を測定し、住民にリスクについて正しい知識を伝える仕事をしていた。前年、看護学科の仲間と一緒に折田さんの話を聞く機会があった。「見ず知らずの土地に住み込んで住民に寄り添うなんてすごい」と憧れた。

被ばくについて真剣に考えたい気持ちと、知るほどに不安になる自分。揺れる思いを伝えた。折田さんは「大丈夫だよ。しっかり考えてるのが偉い」と言ってくれた。涙がボロボロ出た。「一緒に研究しよう。大学院に行って、やれることの幅を広げてみない?」。折田さんの言葉にうなずいた。

三瓶さんは浪江町津島で生まれ育った。祖父母、両親ら6人家族。乳用牛20頭以上を飼育する酪農家だった。原発事故が起き、一時は親戚ら約20人が実家に避難してきたが、数日後に事故の深刻さを知り、家族で郡山市に避難した。

通っていた県立双葉高校は県内四つのサテライト校に分かれた。三瓶さんは郡山市にある他校の校舎に間借りした教室に通った。

同級生らから「福島ナンバーだから洗車を断られた人がいた」などとうわさ話を聞いた。「被災者になりたくてなったわけじゃないのに」。自分は福島のために何ができるか。深い知識があったわけではないが、こう考えた。「被ばくの問題を抱えた人のために働く看護師になろう」

日本医療科学大学の看護学科に進学した。親睦のための合宿で初対面の同級生らに「放射線の影響で避難している」と話すと、場が重苦しくなった。都会での大学生活に慣れるにつれ「普通に生きたい」と思い始めた。福島で看護師になる気持ちは薄れた。

2年生の夏。震災直後に膵臓(すいぞう)がんが見つかった祖父文雄さん(当時74歳)が亡くなった。祖父は原発事故後に酪農をやめていた。

闘病中、看病の母を手伝いに病院に泊まり込んだ。夜中、大学の課題をこなしながら付き添っていると、意識がもうろうとしている文雄さんが「子牛が生まれる」と起き上がることがあった。三瓶さんは「朝起きてからね」と声をかけた。「おじいちゃんみたいな人がいっぱいいるんだろうな」。医療を志す自分を見つめ直した。

「福島に戻ろうか」。再びそう思い始めた時、折田さんに背中を押された。1日最低6時間の勉強を自らに課し、新設された大学院に合格した。

今、原発事故で傷ついた地域に向き合う保健師になりたいと考えている。三瓶さん自身、低線量被ばくへの不安が消えたわけではない。「でも私は専門知識を学んだ人間として、同じような思いの人に寄り添いたい。私にしかできないことがあると思う」



卒業を控えた大学のロビーで友人と談笑する三瓶恵美さん。
古里の福島県で医療の研究を続けることを決めた

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