2016/03/11

福島から山梨へ避難した2つの家族の思いは…/山梨

2016年3月11日 産経新聞
http://www.sankei.com/region/news/160311/rgn1603110054-n1.html

東北を中心に甚大な被害を及ぼした東日本大震災発生から、きょう11日で5年を迎える。復興への歩みを続ける被災地と対照的に、県内では風化も懸念されているが、忘れてはならないのが県内に避難し、共に生活している人たちの存在だ。とりわけ原発事故のため、福島県から避難してきた人たちの心情はさまざまだ。帰郷に向けて準備を進める人、安心を求めて山梨永住を決意した人、さらに「帰りたいけど、帰れない」と悩みを抱く人…。甲斐市と都留市に暮らす2つの家族の思いを聞いた。

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◆南相馬市→甲斐市 掃部関さん 戻れる場所づくり、地元に帰還
福島県南相馬市小高区でとんかつ店「タケヤ」を営んでいた掃部関(かもんぜき)豊さん(49)一家6人が甲斐市に住み始めたのは、平成23年4月1日。

原発事故の直後、一家は原発の半径20km圏内の自宅から、相馬市内の廃校に避難していた。妻、有希子さん(48)の都留市に住む妹から「山梨の日本航空学園が被災した子供を受け入れている」と知らされ、同学園に連絡。数日後に山梨行きを決めた。

「入学試験もなく、長男(22)と次男(20)は学園の学生寮、長女(16)と三男(13)と夫婦は4DKの教員住宅に入居でき、当面は家賃なし。即断即決しました。ただ、こんなに長くなるとは…」

入居後すぐ、掃部関さんは学園の食堂で調理の仕事を始めた。妻もパートに出た。「私らは恵まれてる。住居も収入もあったから」。4月から長男は東京、次男は名古屋で社会人生活をスタートする。

一方、自宅と店がある南相馬市小高区は、帰還準備の宿泊にも国への届け出が必要な「避難指示解除準備区域」だが、早ければ4月に解除される見通しだ。

昨秋に除染作業が終了しており、掃部関さんは月1回程度、自宅に戻っている。とんかつ店があった商店街では理髪店、金物屋などが営業を始めている。

「地元の人間とはまだ、たまに会う程度だけど、20年間続けた店は一昨年秋に取り壊し、来年の新規開店に向けて準備中です。みんなが集まれる、飯を食える場所を作りたいからね」

原発事故から5年。福島に戻るか、新天地でやり直すか…。家族の思いも、ときには揺れる。

「原発事故の被災者は、計画が立たない点が津波被災と違う。『戻る』『戻らない』の判断に正解はなく、自分で決めるしかない。地元の人が、そして、子供たちがいつか、戻ってこられる場所をつくっておきたい」(松田宗弘)
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◆いわき市→都留市 山野辺さん 子供に安心な場所、永住を選択

「ずーと放射能を浴びるのが怖かった」。福島県いわき市で暮らしていた山野辺隆男さん(44)の一家は震災後、同市職員だった山野辺さんを残し、千葉県内の親戚宅に身を寄せた。

余震が収まるのを待ち、いわきに戻ったが、「外に出られない生活はいや」と25年1月、家族5人で都留市の一戸建てを借り、避難生活を始めた。山梨で4度目の春を迎える。

妻の智子さん(40)は「『外気に触れるな』という、ただならぬ状態でした」と当時のいわき市の状況を話す。

自宅周辺は福島第1原発から48キロ離れ、避難指示はでていなかった。それでも近所には北海道へ避難した家族や、夫をいわきに置いて他県に出た家族も。“震災離婚”という話も聞かれたが「主人も私も離れて暮らすことだけは考えてはなかった」と振り返る。

山野辺さんは、夫婦と小学6年の長女(12)、同4年の長男(10)、同2年の次男(7)の5人家族。安全な場所にみんなで避難したかった。

避難先を考えていた矢先に、本で読んだ都留文科大元学長の太田堯(たかし)氏の「外で遊ばせる教育が幼少期には必要」という考えに共感。都留市には、5人家族が住める一戸建てのみなし仮設住宅があることも知った。

「これは何かの縁。都留へ行ってみるか」(隆男さん)と移住先が決まった。

隆男さんは工場で働き出した。いわき市の市職員時と比べ給料は安い。残業で時間外手当を稼ぐ。

「福島に帰りたい」の思いも家族をまとう。「福島へ帰りたいのに帰れない」。気持ちが塞ぐこともあったという。それでも生活は落ち着いてきた。長男と次男は少年野球に夢中だ。

「都留に永住しよう」。夫婦の気持ちが一致した。子供たちにとって最も大切な“安心して外で遊べる環境”を求めた結果だ。(牧井正昭)

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