2016/03/11

自主避難の命綱、あと1年 住宅無償提供打ち切り /福島


2016年3月11日 毎日新聞 
http://mainichi.jp/articles/20160311/ddm/010/040/006000c  

東京電力福島第1原発事故に伴い、福島県では避難指示区域に住んでいた人のほか、被ばくを避けるため区域外からも多くの人が自主避難を続ける。避難先は全国に及び、行政に把握されず支援の網からこぼれ落ちている人も少なくない。福島県は自主避難者への仮設住宅の無償提供を2017年3月で打ち切る方針を示した。福島県の避難者たちの現状を見つめた。

原発事故に伴う福島県からの避難者は、発生直後に全県が災害救助法の適用となったため、避難指示の有無にかかわらず仮設住宅が無償提供されている。内堀雅雄知事は昨年6月、自主避難者への提供を2017年3月末で打ち切ると表明した。一方的に避難終了を迫るものと言え、「汚染は消えていないのに納得できない」と反発はやまない。

県によると、無償提供が打ち切られる自主避難者(昨年6月までに避難指示が解除された地域の避難者も含む)は昨年10月時点で約1万3000世帯、約2万5000人。

全国の都道府県は事故直後から、民間賃貸住宅や公営住宅の空き部屋を借り上げ、避難者に無償提供している。これが「みなし仮設住宅」で、家賃は福島県を通じて国が負担している。今回初めて本格導入され、内閣府によると、今年1月1日現在で3万6294戸。全仮設住宅6万5704戸の約55%を占める。

県外に逃れた避難者に提供されているみなし仮設住宅について福島県は今月、毎日新聞の情報公開請求に避難元の市町村ごと、避難先都道府県ごとの世帯数を明らかにした。両方を記載したデータを公開するのは初めてという。

避難者世帯数

避難指示区域以外の市町村で見ると、いわき市から東京都に304世帯が逃れ、郡山市から199世帯、福島市から145世帯が新潟県に避難していた。これらのほとんどが自主避難者とみられる。

今回の原発避難、特に自主避難は県境を越えて拡散したのが特徴だ。福島県は昨年1月、14年末時点の入居者数を避難元市町村ごとに回答するよう各都道府県に要請した。結果を基に内閣府と協議し、自主避難者への仮設住宅提供打ち切りを決めた。

自主避難者に東京電力から払われる賠償は最高で大人12万円、子どもと妊婦が72万円で、みなし仮設住宅はほぼ唯一の公的支援。県の15年度予算によると、みなし仮設住宅の家賃が大半を占める災害救助費は約280億円、うち自主避難者分は最大約81億円。総額3・6兆円とも試算される除染に比べるとわずかだ。

責任の不明確さも自主避難者の不信を増幅する。住宅提供したのは避難先の自治体にもかかわらず、福島県が密室で国と協議し提供の打ち切りを決めた。自主避難者支援を目的に議員立法で成立した「子ども・被災者生活支援法」は政府に骨抜きにされた。

県は自主避難者に対し17年以降、2年間に限って最大3万円の家賃補助制度を導入する方針。県と復興庁の担当者は全国で新制度の説明会を開いたが、参加者の声は「打ち切り撤回」一色だ。

自主避難者は人数すら正確に把握されていない。復興庁は毎月、都道府県の報告を基に全国避難者数を公表するが、自主避難者の定義を政府が明示しないため都道府県ごとに集計方法がばらばらだ。さらに住民票を残したまま避難する人も多い。自主避難者の入居を制限した避難先自治体もあり、親戚や知人宅に住んだり、家賃を自己負担したりしている人も少なくない。

元復興庁幹部は「調査するとなると範囲が問われ、外れた自治体からは不満も出るだろう。定義は難しい」と語った。【日野行介、夫彰子】

福島第1原発事故の自主避難者と仮設住宅を巡る経緯

帰郷せぬ母「子供が一番」

2月半ば、新潟市西区の2階建てアパートに、磯貝潤子さん(41)を訪ねた。原発事故から1年後の2012年春に福島県郡山市から娘2人と自主避難した。玄関を入るとすぐ2段ベッドが目に入った。中学3年の長女(15)と2年の次女(14)が使う子ども部屋で、広さは4畳半。

夫の会社員、秀樹さん(45)は仕事のため今も郡山市の自宅にいる。二重生活で支出が増えた。自宅のローン返済が月5万8000円あり、夫の給料と自身のパート収入に、貯金を取り崩しても「ギリギリか赤字」の状態で暮らす。

避難先アパートの家賃は月6万円。みなし仮設住宅としての無償提供は約1年後に終わる。磯貝さんは「パートを掛け持ちするか自宅を手放すか」との悩みに直面する。

念願だった家族4人のマイホーム暮らし。「誰かの誕生日や記念日は必ず皆が集まってご飯を食べた」。それが3年余で途絶え、自分と娘2人は避難生活の方が既に長い。

自主避難者としての思いを語る磯貝潤子さん=新潟市西区、夫彰子撮影

原発建屋が水素爆発した時は「水素って水みたいなものでしょ」と思った。念のため当時小学生だった娘たちには外出時にマスクをさせ、地元の野菜を買い控えた。一方で、PTA副会長として娘の学校の除染活動に励んだ。

その後、長女が原因不明の鼻血を繰り返すようになった。因果関係の証明はないとされる。ただ、自分で安全に配慮していたつもりだったが、被ばくに無知だったと思った。気付けば知人の家族は郡山市を次々去っていた。

募る恐怖と裏腹に、月日の経過で周囲に「放射線量は下がり、もう大丈夫」というムードを感じ、本音を口にできなかった。今も「大人の都合で娘たちに危険を強いた」と涙ながらに自分を責める。

避難を決意した11年末、「最後の家族旅行かも」と4人で東京ディズニーランドに行った。華やかなイルミネーションに「福島はこのために原発を引き受けてきたの?」とやるせなさがこみ上げた。


東京電力から受け取った賠償は約200万円。頼れる支援は避難先の無償提供だけ。事故から5年たてば世の中も自分の暮らしも良くなると思っていたが、現状は程遠い。

けれど「子どもが一番大事なんだと気づけた。いつまでも『何で福島だけ、私たちだけ』と泣くのはやめよう」と思えるようになった。今春に長女、来春は次女が高校進学を控えるが、「お金はどうにかなるよ」と言っている。

最近、東電への集団賠償訴訟参加を決めた。自分も原発事故の被害者であることを訴えるために。【夫彰子】

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