2016/03/09

分断乗り越える共同体を~福島を忘れないで

2016年3月9日 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/matome/shinsai5/20160308-OYT8T50054.html

福島県は原発事故後、放射性物質の状況によって何度も避難区域が設定し直された。こうした線引きだけでない。住民は、放射能の健康影響についての考え方や、地元にとどまるべきかどうか、さまざまな意見の違いによって、何重にも分断されてきた。分断を乗り越え、地域社会の絆をつなぎとめるためには何が必要なのか。2011年から南相馬市で活動する日本国際ボランティアセンター(JVC)の白川徹氏に寄稿してもらった。

日本国際ボランティアセンター震災支援担当 白川徹

林立する見えない壁
南相馬市は太平洋沿いの「浜通り」に位置し、2006年に鹿島町、原町市、小高町が合併して誕生した比較的新しい市だ。原発事故後、市の南側3分の2は立ち入り禁止の警戒区域と緊急時避難準備区域に指定され、人口は7万2000人から1万人に激減した。店は軒並み閉まり、家々からも人の気配が消えた。郵便も届かず、マスコミすら取材に来ない。従来の広報が機能しなくなったため、11年4月に市役所は臨時災害放送局(災害FM)を立ち上げ、JVCに協力を要請した。

私はもともとフリーランスの記者として活動していたが、東日本大震災と原発事故の被害の大きさに、伝えるだけでなく実際に現場で支援することを志し、JVCに入った。11年5月から、最初は主に放送局の運営支援、その後は仮設住宅での孤独死防止を主な目的に、南相馬市に通い続けている。

震災と原発事故から5年を経て、南相馬市の人口は約5万7000人にまで回復した。店もずいぶん増え、人々の生活は戻りつつあるように見える。旧警戒区域(原発から20キロメートル以内)で居住制限が続く市南部の小高区も今年4月、避難指示が解除され、住民の帰還が始まる予定だ。

南相馬市が順調に復興しているかというと、そうは言い切れない。地域には、さまざまな形で地域を分断する見えない壁が立ちはだかってきたし、それは今も残っている。

除染された汚染土砂が積み上げられる仮置き場(南相馬市小高区で)

生きるのに必要な「踏ん切り」
南相馬市は福島第一原発事故の際、警戒区域以外では避難するかしないかが市民の自主判断に委ねられた。

放射性物質の人体への影響をどう考えるかは、非常に難しい問題だ。何ミリシーベルトを安全の目安とすべきか権威ある学者同士でも意見が割れた。戻るか戻らないかの判断は住民自身が行わなければいけない。自分や家族の健康に直結する問題だ。「何ミリシーベルト以下なら安全」と国に言われても、そう簡単に信じられなかった。

南相馬市のNPO法人で働く竹花和子さん(56)は、娘の結婚式をどこで挙げるかで悩みぬいた。市外に避難していた娘は南相馬での挙式を望んだが、友人たちに南相馬市までに来てもらってよいのか、という思いもあった。何度も2人で話しあった結果、市内で結婚式を行ったが、今も政府への不信感は消えていないという。

「夫と市内で暮らしていますが、なるべく福島産の野菜は食べないようにしています。この年になってなんで、と言われるかもしれませんが、あと何十年かはある人生です。政府や市の言う『安全だ」という言葉は簡単には信じられません」

別の考えを持つ人もいる。同じく南相馬市のNPO法人で働く藤和子さん(55)は、一度、飯舘村に避難して、その後、南相馬市の仮設住宅に移った。「最初は放射能の被害が怖く、家の中にずっと閉じこもっていました。でも、閉じこもっているとだんだん気分もおかしくなってきます。翌年の2月から仮設の住民をケアする仕事を始めたのですが、あるとき、もう放射能のことは気にしないことにしました。無理にでも自分を納得させないと、ここで暮らしていくことはできないと思います」

私は南相馬の多くの人が藤さんと同じような意見だと感じる。日々、目に見えない放射性物質の恐怖に怯おびえていては、暮らしていくことは不可能だ。放射性物質に対する知識がないということではない。そのリスクを分かった上で踏ん切りをつけなければならないほど追い込まれているのだ。

津波被害を受け、破壊された家々の残骸はすべて片付けられ、土台だけが残る
(南相馬市小高区)

家族、世代間での感情的な衝突も

友人や家族の間でも感情的な衝突が起きた。11年8月、子どもを連れて、福島市の避難所を出て南相馬に戻ってきた30代の母親の話が印象的だった。

不自由な暮らしに幼い娘がまず耐えられなかったし、彼女自身も戻りたかった。南相馬に戻るにあたっては、インターネットや新聞で、自宅周辺の放射線量や、内部被曝ひばくを避ける方法を調べた。戻るときに、避難所で友人に話したところ、「あなたは子どものことを考えていない」と責められ、胸が潰れるほど痛かったという。

反面、子どものことを考えて遠くに避難した息子夫婦世代に、南相馬に住む親戚たちから非難の言葉が浴びせられることもある。東京都杉並区に妻子を連れて避難中の40代の男性は避難していることに負い目を感じているという。

「南相馬の両親と話すと、『俺たちはここで普通に暮らしているのになんで帰ってこないんだ』とよく言われます。用事があって南相馬に行く時も、周りの目がつらいです。わたしは妻子に少しでも安全な場所で暮らしてほしいだけなんですが……」

今、市外に避難している人たちの多くは子どもを持つ若い世代だ。一方、地元にこだわりの強い老齢世代が市内に残るケースが多い。原発事故は心の分断をも引き起こした。

イルミネーションに彩られた仮設住宅の集会場

分断の末、孤独死の危険
避難先から仮設を訪れた孫にお菓子を渡す仮設の住民。高齢者の多くが仮設に残り、避難した家族と離れ離れに暮らす

地域社会が何重にも分断されれば、相互に支えあってきた昔ながらの機能は失われていく。浜通り地方の住民は震災前、集落単位で相互扶助のもと暮らしていた。集落は非常に強固な結びつきで、「別の集落の人とはあまりしゃべったことがない」という高齢者も少なくなかった。

南相馬市に仮設住宅が出来た際、集落より大きな単位の「区」は考慮されたが、集落が考慮されず入居する場所が割り振られた。その結果、震災前のコミュニティーがバラバラになってしまう状況がみられた。

前述のように若い世代が市外に避難しているため、老齢世代のみが仮設に暮らすケースが極めて多かった。JVCが11年8月に調査をしたところ、仮設の平均年齢は70歳。違う行政区から集まっているため、1か月暮らしていても隣の人と挨拶もしたことがないケースも散見された。私たちが懸念をしたのは、阪神・淡路大震災の時のように孤独死が頻発することだった。

避難先から仮設を訪れた孫にお菓子を渡す仮設の住民。
高齢者の多くが仮設に残り、避難した家族と離れ離れに暮らす

「サロン」でコミュニティーづくり行政もただ手をこまねいていたわけではない。社会福祉協議会が週1回の交流サロンを開き、市の臨時職員として住民の生活支援をする生活相談員を仮設に配置した。しかし、就労世代が少なく、活動が縦割りで、支援の手が十分とは言いがたかった。

JVCは臨時災害放送局の運営で知り合った小高区塚原行政区(集落)区長の今野由喜さんに団体を立ち上げてもらい、そこを側面支援する形で、仮設でのコミュニティー形成活動を開始した。目標は仮設に「仮の行政区(集落)」を作り、震災前にあったような相互扶助の体制を作ることだ。2012年初頭に仮設住宅の集会場を利用して常設型の「サロン」を開設した。

管理者として同じ被災者の女性が常駐。サロンでは、住民間の交流を増やし、イベントの運営には住民にも参加してもらった。また、住民同士でボランティアや歌、踊りのグループを作るようにも呼びかけた。

南相馬市ではいまも約4000世帯が仮設住宅や借り上げ住宅で避難生活を続けているが、現在でも仮設住宅4か所でサロンの運営が続いている。結果、住民間で相互扶助の体制が生まれ、仮設に疑似的な行政区を作ることが出来た。現在まで仮設住宅内で孤立し、孤独死の犠牲となった住民は出ていない。

仮設住宅で開かれている「輪投げ大会」

孤独死を防ぐために
コミュニティーの崩壊を象徴する出来事が孤独死だ。14年の南相馬市の発表では、同年4月までに50人が孤独死した。孤独死は東京など都会ではそれほどめずらしいものではないが、震災前には南相馬市で孤独死は一件も起きていなかった。

ニッセイ基礎研究所のレポートでは、孤独死を「1人で亡くなり、死後4日以上経過して発見された人」と定義したうえで、1年間に約1万5600人が孤独死していると推計している。その多くが都市部での生活者だ。

孤独死には主に以下の原因が指摘されている。(1)高齢化の進展とひとり暮らしの増加(2)生活の都会化に伴う近隣関係の希薄化(3)核家族化の普遍化(4)社会とのディスコネクト(断絶)――。いずれも行政区が機能し、数世代が同居することが珍しくなかった南相馬市にはなかった因子だが、震災と原発事故による避難と住民感情の分断により因子が急激に南相馬市に現れた。

このため南相馬市は14年より新聞配達や輸送業者と協定を結び、異常がある場合は警察に通報するシステムを構築した。また、3日間応答がない場合、警察が立ち入って安否を確認する体制も整備した。JVCの支援するサロンも仮設に関わる他の支援者と連携し、仮設全体を漏れなく見ていく体制を作った。

南相馬市小高区塚原の住民が、独自で建立した慰霊碑

仮設を出た後の困難~復興住宅に潜む危険
だが、孤独死の危険が増すのは、むしろこれからかもしれない。15年度に入り、急速に仮設住宅から外へと転居する人が増えている。災害公営住宅の引き渡しが始まったこと、新しい土地を購入し、自宅を再建した人が増えたことが要因だ。それ自体は、避難者の生活再建ができている、ということで好ましい状況だ。

しかし、それは行政やJVCなどのNPO、ボランティア団体が手厚く支援し、コミュニティーが維持されていた仮設住宅を出るということも意味している。仮設を引き払い、新たな住居に移れば、避難者としての支援は得られない。それだけでなく、災害公営住宅や新しい土地で、なじんだコミュニティーが存在しない場所での生活を余儀なくされる。

阪神淡路大震災の場合、仮設住宅ができた後、12年までの仮設での孤独死者数は233人だったが、復興公営住宅での孤独死者数は778人に及んだ。仮設を出た後、支援の手が届かなくなった後のほうが孤独死の発生率が高いのだ。

また、今年4月には避難指示が解除され、住民が元の家に戻れることになる。南相馬市が行った旧警戒区域の住民アンケートでは、避難指示解除後、帰還すると回答したのは1141人で、震災前の人口のわずか9%にすぎない。しかも60歳以上が全体の約85%を占めている。コミュニティーの失われた旧警戒区域での孤独死も強く懸念される。

昨年建設された原町区大町東災害公営団地。プライバシーは確保されるが、
仮設のように隣とのコミュニケーションは取りづらい

「心の復興」息長く支えて
福島県では建物の再建、除染が急速に進んでいる。南相馬市でも8000人もの作業員が昼夜を問わず作業を続けており、一見、復興は順調なように見える。しかしながら、壊れてしまったコミュニティーの復興は前途多難である。

南相馬市が14年11月に行った市外避難者への帰還に関するアンケートでは「将来的に戻る」と回答したのはわずか39.7%であった。「戻らない」と回答した人の理由では「放射能汚染への不安」が48.3%で最も多かった。子どもを持つ世代が少しでもリスクを避けようとすることは、少しも不思議ではない。

今後も南相馬市の若い世代の不在の傾向は変わらないだろう。老齢世代だけでどのようにコミュニティーを築き、生き残っていくかが問題になる。都市部の人は「近所付き合いがなくても行きていける」と言うかもしれないが、南相馬の人々の多くは原発事故前、集落をベースにした強固な絆のもとで暮らしていた。そこには相互扶助のシステムやコミュニケーションの場が存在した。それが理不尽に奪われた以上、それを補う支えが必要だ。

東日本大震災からもうすぐ5年を迎えようとしている。ある人にとっては「もう5年」かもしれないし「まだ5年」かもしれない。いずれにしろ地震・津波・原発事故の複合災害に襲われた南相馬市市民にとっては、決して楽な5年ではなかった。

仮設住宅のサロンで、70代男性がテレビ番組を見ながらポツリとつぶやいた。
「また東京ばっかり盛り上がっちゃって。まだ帰れない人がこんなにいるのに」

テレビでは東京オリンピックのことが取り上げられていた。あの未曽有の大震災から「まだ5年」なのだ。興味を失わず、東北の人々に関心を持ち続けてほしい、というのが被災地支援に携わってきた者としての切なる願いだ。

市民の心、コミュニティーの再生には長い時間がかかる。それは建物や道路のように成果がすぐ見えるものではない。息の長い支援が必要なのだ。しかしながら、東北被災地への関心は日を増すごとに薄れていっている。福島県南相馬市や宮城県気仙沼市でコミュニティーづくりや生活再建支援を続けるJVCへの寄付金も年を追うごとに少なくなり、震災後すぐに集まった寄付金を食いつぶしながら活動を続けている状態だ。JVCのような国際協力NGOやNPOの被災地での活動は、行政の目の届かないところに目を配り、行政に問題を提言し、住民や行政とともに解決策を講じていくことに意味がある。復興は行政だけでは成しえない。NPOやボランティア団体など、民間との連携があってこそ可能なのだ。

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