http://digital.asahi.com/articles/DA3S11754038.html
午前10時に予定したささやかな式典は15分ほど遅れて始まった。4月15日、福島県いわき市にあるNPO法人「いわき放射能市民測定室たらちね」。食品などに含まれるγ(ガンマ)線の測定や甲状腺検査を手がける団体だ。
この日、日本で初めての取り組みに乗り出した。大学でも専門機関でもない、市民自らがβ(ベータ)線という放射線を測る「βラボ」を設け、測定を始めたのだ。式典に集まったのはスタッフ数人と地元紙の記者ら計10人ほど。
事務局長の鈴木薫(すずきかおり)(49)が簡単にあいさつし、ラボのテクニカルマネジャー天野光(あまのひかる)(66)、「たらちね」理事の佐藤和良(さとうかずよし)(61)が少してれながらテープカットした。紅白のテープも、はさみを飾るリボンも、鈴木らスタッフの女性たちが式の直前に手作りした。
2011年3月の東京電力福島第一原発事故後、放射能汚染への関心が一気に高まった。自ら食品などの放射能を測る「市民測定所」が各地に誕生、100カ所以上あるといわれる。ただ、そのほとんどが、食品や土壌に含まれるセシウムなどのγ線を測る施設だ。
ストロンチウムやトリチウムはβ線を出す。体内に入ると周囲の細胞を長期にわたって傷つける。測定器があればわりと簡単に測れるγ線と違い、β線を測るには大規模な設備と数週間の期間が必要とされ、これまで専門機関しか手がけていなかった。
それを「たらちね」は市民の手で、短期間・低料金で測定する。ラボには高価な専門機器と、ホームセンターで買った電子レンジや圧力鍋が同居する。費用を抑えて効率的に測定するためにスタッフで知恵を出し合った。
原動力となったのは、子どもたちの放射線被害を心配する、鈴木を中心とする女性たちだ。「たらちね」のスタッフは現在10人。うち女性が7人を占める。
木村亜衣(きむらあい)(36)は昨春、求人広告を見て、やってきた。中学生の娘2人の母親。高校で理系だったからと、βラボの担当になった。「放射能の知識は全くなかったけれど、毎日が実験みたい。結果がわかるのがすごく楽しい」白衣姿でほほ笑む。
放射能の不安を乗り越えようと取り組む女性たちを追います。
2、中心には彼女がいる(5/16)◇No.1274
http://www.asahi.com/articles/DA3S11756174.html
JR常磐線泉駅から車で10分余り。福島県いわき市の「いわき放射能市民測定室たらちね」は県道沿いの3階建てビルにある。市民のために様々な物質の放射能を測るNPO法人である。ビルの1階は婦人服店で、3階でエレベーターを降りると正面は美容室。廊下を右に曲がり、突き当たりの一角が「たらちね」だ。来客は、廊下で靴をスリッパに履き替える。福島第一原発事故から8カ月後、2011年11月の開設時にそう決めた。靴についた土の放射能で測定値が影響されるのを避けるためだ。
廊下の左の扉が事務室、右の扉が今年4月にβ(ベータ)線の測定を始めた「βラボ」。βラボへ入るには再度スリッパを履き替える必要がある。汚染防止に加え、高性能の精密な機器を扱っているからと、ラボの責任者の天野光(66)は言う。
「たらちね」が手がけるのは、水や食品、土壌などのγ(ガンマ)線とβ線の測定、ホールボディーカウンター(WBC)による人体の内部被曝(ひばく)の測定、そして甲状腺検査だ。最も利用が多いのは食品のγ線の測定で、発足から3年間で約5500件に上る。
γ線は事務室で測る。壁際にベラルーシ製やドイツ製の測定器が4台、反対側にWBCが1台ある。測定器はどれも、2リットルのペットボトルの水が6本入った段ボール箱でびっしりと囲ってある。自然にある放射線を水で遮って正確に測定するためだ。段ボール箱は殺風景にならないようにと様々な色で塗ってある。
WBCを囲む箱は薄いピンク色。測定器を寄付した団体のロゴや、クジラの絵が描いてある。
事務室の一番奥で、女性スタッフが4人ほどパソコンに向かう。部屋の中央には大きな木製テーブルが二つ。いつも手土産などの菓子がたくさん載っている。昼時にはスタッフが集まり、弁当を広げておしゃべりに興じる。
週1回、広島県の有機農家から野菜が届く。協力者の仲介で共同購入している。測定は利用せずに野菜だけ買いにくる人もいる。野菜を取りにきた人、測定の相談にきた人、様々な人が立ち話をし、座って話し込む。その中心に事務局長の鈴木薫(49)がいる。
彼女がいたからここまできた。周囲は口をそろえる。
3 遠い存在だった原発(5/17)◇No.1275
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11758131.html
素人には難しいといわれるβ線の測定にのりだした福島県いわき市のNPO法人「いわき放射能市民測定室たらちね」。その中心にいるのは事務局長の鈴木薫(49)だ。
だが鈴木は、福島第一原発の事故前は「原発がどこにあるかもよく分かっていなかった」。
いわきで生まれ育った。東京の短大を出てDCブランドのアパレルメーカーに就職。2年余りで帰郷し、自営業の夫(55)と結婚する。息子と娘を育てながら自宅でヨガを教えた。エステの資格も持つ。
その一方、産廃処分場や病院整備など地域の問題にも目を向けてきた。2006年には、地元の隔週刊の新聞「日々の新聞」に、処分場問題についてエッセーを書いたこともある。
そのころ、共通の友人を通じてミサオ・レッドウルフを知る。原発事故後、官邸前の脱原発デモに10万人以上集めた首都圏反原発連合の中心メンバーの一人だ。気が合い、仲良くなった。鈴木の運転で福島県内のドライブを楽しんだりした。
ミサオは当時、すでに反原発の活動を始めていた。このころの鈴木は、ミサオから青森県六ケ所村の再処理工場の問題を聞いて「そんなことがあるんだ」と驚いたくらい、原発には詳しくなかった。いわきから数十キロしか離れていない福島第一原発も、どこか遠い存在だった。
ところが11年3月11日、東日本大震災が起きる。2人は電話でおしゃべりしている最中だった。ミサオは、電話の向こうで鈴木の家の食器棚が揺れで激しい音を立てたのを覚えている。鈴木は電話を切って、棚を押さえに行った。
「原発に何かあるかもしれない」鈴木は避難に備えて車のガソリンを満タンにした。
翌日、原発で爆発が起きる映像をテレビで見る。すぐカーテンを閉めて窓のサッシに目張りした。
岩手大の学生だった長男(23)を除く、夫と高校2年だった長女(21)と3人で、ともかく避難。北関東を転々とした。夫の仕事があるため4月にいわきに戻ったが、1年間、長女は学校以外は外に出さなかった。
それを「たらちね」は市民の手で、短期間・低料金で測定する。ラボには高価な専門機器と、ホームセンターで買った電子レンジや圧力鍋が同居する。費用を抑えて効率的に測定するためにスタッフで知恵を出し合った。
原動力となったのは、子どもたちの放射線被害を心配する、鈴木を中心とする女性たちだ。「たらちね」のスタッフは現在10人。うち女性が7人を占める。
木村亜衣(きむらあい)(36)は昨春、求人広告を見て、やってきた。中学生の娘2人の母親。高校で理系だったからと、βラボの担当になった。「放射能の知識は全くなかったけれど、毎日が実験みたい。結果がわかるのがすごく楽しい」白衣姿でほほ笑む。
放射能の不安を乗り越えようと取り組む女性たちを追います。
2、中心には彼女がいる(5/16)◇No.1274
http://www.asahi.com/articles/DA3S11756174.html
JR常磐線泉駅から車で10分余り。福島県いわき市の「いわき放射能市民測定室たらちね」は県道沿いの3階建てビルにある。市民のために様々な物質の放射能を測るNPO法人である。ビルの1階は婦人服店で、3階でエレベーターを降りると正面は美容室。廊下を右に曲がり、突き当たりの一角が「たらちね」だ。来客は、廊下で靴をスリッパに履き替える。福島第一原発事故から8カ月後、2011年11月の開設時にそう決めた。靴についた土の放射能で測定値が影響されるのを避けるためだ。
廊下の左の扉が事務室、右の扉が今年4月にβ(ベータ)線の測定を始めた「βラボ」。βラボへ入るには再度スリッパを履き替える必要がある。汚染防止に加え、高性能の精密な機器を扱っているからと、ラボの責任者の天野光(66)は言う。
「たらちね」が手がけるのは、水や食品、土壌などのγ(ガンマ)線とβ線の測定、ホールボディーカウンター(WBC)による人体の内部被曝(ひばく)の測定、そして甲状腺検査だ。最も利用が多いのは食品のγ線の測定で、発足から3年間で約5500件に上る。
γ線は事務室で測る。壁際にベラルーシ製やドイツ製の測定器が4台、反対側にWBCが1台ある。測定器はどれも、2リットルのペットボトルの水が6本入った段ボール箱でびっしりと囲ってある。自然にある放射線を水で遮って正確に測定するためだ。段ボール箱は殺風景にならないようにと様々な色で塗ってある。
WBCを囲む箱は薄いピンク色。測定器を寄付した団体のロゴや、クジラの絵が描いてある。
事務室の一番奥で、女性スタッフが4人ほどパソコンに向かう。部屋の中央には大きな木製テーブルが二つ。いつも手土産などの菓子がたくさん載っている。昼時にはスタッフが集まり、弁当を広げておしゃべりに興じる。
週1回、広島県の有機農家から野菜が届く。協力者の仲介で共同購入している。測定は利用せずに野菜だけ買いにくる人もいる。野菜を取りにきた人、測定の相談にきた人、様々な人が立ち話をし、座って話し込む。その中心に事務局長の鈴木薫(49)がいる。
彼女がいたからここまできた。周囲は口をそろえる。
3 遠い存在だった原発(5/17)◇No.1275
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11758131.html
素人には難しいといわれるβ線の測定にのりだした福島県いわき市のNPO法人「いわき放射能市民測定室たらちね」。その中心にいるのは事務局長の鈴木薫(49)だ。
だが鈴木は、福島第一原発の事故前は「原発がどこにあるかもよく分かっていなかった」。
いわきで生まれ育った。東京の短大を出てDCブランドのアパレルメーカーに就職。2年余りで帰郷し、自営業の夫(55)と結婚する。息子と娘を育てながら自宅でヨガを教えた。エステの資格も持つ。
その一方、産廃処分場や病院整備など地域の問題にも目を向けてきた。2006年には、地元の隔週刊の新聞「日々の新聞」に、処分場問題についてエッセーを書いたこともある。
そのころ、共通の友人を通じてミサオ・レッドウルフを知る。原発事故後、官邸前の脱原発デモに10万人以上集めた首都圏反原発連合の中心メンバーの一人だ。気が合い、仲良くなった。鈴木の運転で福島県内のドライブを楽しんだりした。
ミサオは当時、すでに反原発の活動を始めていた。このころの鈴木は、ミサオから青森県六ケ所村の再処理工場の問題を聞いて「そんなことがあるんだ」と驚いたくらい、原発には詳しくなかった。いわきから数十キロしか離れていない福島第一原発も、どこか遠い存在だった。
ところが11年3月11日、東日本大震災が起きる。2人は電話でおしゃべりしている最中だった。ミサオは、電話の向こうで鈴木の家の食器棚が揺れで激しい音を立てたのを覚えている。鈴木は電話を切って、棚を押さえに行った。
「原発に何かあるかもしれない」鈴木は避難に備えて車のガソリンを満タンにした。
翌日、原発で爆発が起きる映像をテレビで見る。すぐカーテンを閉めて窓のサッシに目張りした。
岩手大の学生だった長男(23)を除く、夫と高校2年だった長女(21)と3人で、ともかく避難。北関東を転々とした。夫の仕事があるため4月にいわきに戻ったが、1年間、長女は学校以外は外に出さなかった。
4 初めてデモを見た(5月18日)No.1276
http://www.asahi.com/articles/DA3S11759657.html?iref=comtop_list_ren_n12
NPO法人「いわき放射能市民測定室たらちね」事務局長の鈴木薫(49)は、2011年3月に事故が起きるまで、福島第一原発がどこにあるかもよく分かっていなかった。事故後、北関東を転々としながら、毎日のようにミサオ・レッドウルフと連絡を取り合った。東京在住の反原発活動家は、鈴木にとっては気の合う友人だった。
ミサオは、いわき市議の佐藤和良(61)が4月に東京で講演するから聞きに行こうと誘ってきた。佐藤は以前から、いわきで脱原発を訴えていた。
誘われるまま鈴木は、避難先の群馬県高崎市から東京・お茶の水の総評会館(現連合会館)に向かった。
事故から間もない4月3日。被災した当事者の講演とあって約300人入る会場は満員で、国内外の報道陣も詰めかけていた。鈴木はミサオと、会場の一番後ろに座った。頭の後ろにずらっとテレビカメラが並んでいた。殺気立った雰囲気の中、鈴木は身を小さくして佐藤の話を聞いた。
住民の被曝(ひばく)量などを予測するSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)の情報が公開されなかったと初めて知る。驚いた。横を見るとミサオは机に伏して居眠りしていた。よく眠れると感心した。
講演が終わり、佐藤と報道陣との名刺交換の長い列が終わるのを待って、鈴木は「和良さーん」と手を振った。直接話したことはなかったが、どこかの会合で一緒になったような気もした。佐藤も「あれ、どっかで見たことあんなー」と返した。
ここでの出会いが、後に「たらちね」の活動につながっていく。
1週間後の4月10日。ミサオがまた鈴木を誘う。今度は東京・高円寺のデモだ。鈴木はデモを見るのも初めてだった。若者が目立ち、ドラムを鳴らしたり、手製のプラカードを掲げたり。商店街を主催者発表で約1万5千人が埋め尽くし、狭い通りは身動きもできなかった。
「原発って何なんだ」あらためて鈴木は思った。
自分たち避難者の間には、放射能汚染への不安や、見通しのつかない将来に、目に見えない重圧感がのしかかっていた。そんな空気を吹き飛ばしたい。何かしたい。鈴木の中で思いが膨らんでいった。
5 パレードと呼んだ(5月19日)◇No.1277
http://www.asahi.com/articles/DA3S11760846.html
2011年4月。福島県いわき市で暮らしていた鈴木薫(49)は、福島第一原発の事故をきっかけに、東京・高円寺の脱原発デモに参加。自分も何かしなければ、という思いを募らせていった。友人で反原発運動を手がけるミサオ・レッドウルフが、いわき市でデモをしようと持ちかけてきた。
原発事故は収束するどころか、政府が指示する避難の対象地域がますます拡大していた。「デモをやるのは当然だという気がした。私たちの意見を言っておかないといけない」鈴木はすぐに賛同した。
問題は、どう進めるか。東京まで講演を聴きにいった、いわき市議の佐藤和良(61)に相談することにした。佐藤への連絡は、鈴木がかつて産廃問題について投稿したことのある隔週刊紙「日々の新聞」の記者で、旧知の大越章子(おおこしあきこ)(50)に頼んだ。
もともと脱原発の活動をしてきた佐藤は「デモのやり方」にも詳しかった。鈴木が「デモをやりたいんですけれど」と言うと、「本当にやんの?」と3回くらい聞かれた。警察への届け出が必要だと教えられ、鈴木はいわき中央署に1人で足を運ぶ。
鈴木の記憶だと、4人ほどの警官に2時間ほど、デモの目的などを色々聞かれた。さいごは「デモコースの相談にものってくれて、至れり尽くせり」だった。
チラシも3千枚刷った。「日々の新聞」に折り込んでもらったり、ネットで告知を見て連絡してきた人に配ってもらったりした。主催する「いわきアクション!ママの会」という団体もつくる。
佐藤の提案で、デモとは呼ばず、「さよなら原発 放射能汚染のない平和な未来を求めるパレード!」と呼ぶことにした。
当日の5月15日。約500人が参加、出発地の平中央公園ではフラダンスも披露された。参加者は、それぞれの思いを書いたカードや楽器を手に1時間ほど歩いた。平体育館では、原発の地元から避難してきた人たちが、窓から「頑張れー」と声をかけた。
列に遅れて歩道を歩いていた高校生たちに、警官が「デモは憲法で認められている。堂々と車道を歩きなさい」と呼びかけた。そう、大越は「日々の新聞」に記事を書いた。
6 農家も不安は同じ(5月20日) ◇No.1278
http://www.asahi.com/articles/DA3S11759657.html?iref=comtop_list_ren_n12
NPO法人「いわき放射能市民測定室たらちね」事務局長の鈴木薫(49)は、2011年3月に事故が起きるまで、福島第一原発がどこにあるかもよく分かっていなかった。事故後、北関東を転々としながら、毎日のようにミサオ・レッドウルフと連絡を取り合った。東京在住の反原発活動家は、鈴木にとっては気の合う友人だった。
ミサオは、いわき市議の佐藤和良(61)が4月に東京で講演するから聞きに行こうと誘ってきた。佐藤は以前から、いわきで脱原発を訴えていた。
誘われるまま鈴木は、避難先の群馬県高崎市から東京・お茶の水の総評会館(現連合会館)に向かった。
事故から間もない4月3日。被災した当事者の講演とあって約300人入る会場は満員で、国内外の報道陣も詰めかけていた。鈴木はミサオと、会場の一番後ろに座った。頭の後ろにずらっとテレビカメラが並んでいた。殺気立った雰囲気の中、鈴木は身を小さくして佐藤の話を聞いた。
住民の被曝(ひばく)量などを予測するSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)の情報が公開されなかったと初めて知る。驚いた。横を見るとミサオは机に伏して居眠りしていた。よく眠れると感心した。
講演が終わり、佐藤と報道陣との名刺交換の長い列が終わるのを待って、鈴木は「和良さーん」と手を振った。直接話したことはなかったが、どこかの会合で一緒になったような気もした。佐藤も「あれ、どっかで見たことあんなー」と返した。
ここでの出会いが、後に「たらちね」の活動につながっていく。
1週間後の4月10日。ミサオがまた鈴木を誘う。今度は東京・高円寺のデモだ。鈴木はデモを見るのも初めてだった。若者が目立ち、ドラムを鳴らしたり、手製のプラカードを掲げたり。商店街を主催者発表で約1万5千人が埋め尽くし、狭い通りは身動きもできなかった。
「原発って何なんだ」あらためて鈴木は思った。
自分たち避難者の間には、放射能汚染への不安や、見通しのつかない将来に、目に見えない重圧感がのしかかっていた。そんな空気を吹き飛ばしたい。何かしたい。鈴木の中で思いが膨らんでいった。
5 パレードと呼んだ(5月19日)◇No.1277
http://www.asahi.com/articles/DA3S11760846.html
2011年4月。福島県いわき市で暮らしていた鈴木薫(49)は、福島第一原発の事故をきっかけに、東京・高円寺の脱原発デモに参加。自分も何かしなければ、という思いを募らせていった。友人で反原発運動を手がけるミサオ・レッドウルフが、いわき市でデモをしようと持ちかけてきた。
原発事故は収束するどころか、政府が指示する避難の対象地域がますます拡大していた。「デモをやるのは当然だという気がした。私たちの意見を言っておかないといけない」鈴木はすぐに賛同した。
問題は、どう進めるか。東京まで講演を聴きにいった、いわき市議の佐藤和良(61)に相談することにした。佐藤への連絡は、鈴木がかつて産廃問題について投稿したことのある隔週刊紙「日々の新聞」の記者で、旧知の大越章子(おおこしあきこ)(50)に頼んだ。
もともと脱原発の活動をしてきた佐藤は「デモのやり方」にも詳しかった。鈴木が「デモをやりたいんですけれど」と言うと、「本当にやんの?」と3回くらい聞かれた。警察への届け出が必要だと教えられ、鈴木はいわき中央署に1人で足を運ぶ。
鈴木の記憶だと、4人ほどの警官に2時間ほど、デモの目的などを色々聞かれた。さいごは「デモコースの相談にものってくれて、至れり尽くせり」だった。
チラシも3千枚刷った。「日々の新聞」に折り込んでもらったり、ネットで告知を見て連絡してきた人に配ってもらったりした。主催する「いわきアクション!ママの会」という団体もつくる。
佐藤の提案で、デモとは呼ばず、「さよなら原発 放射能汚染のない平和な未来を求めるパレード!」と呼ぶことにした。
当日の5月15日。約500人が参加、出発地の平中央公園ではフラダンスも披露された。参加者は、それぞれの思いを書いたカードや楽器を手に1時間ほど歩いた。平体育館では、原発の地元から避難してきた人たちが、窓から「頑張れー」と声をかけた。
列に遅れて歩道を歩いていた高校生たちに、警官が「デモは憲法で認められている。堂々と車道を歩きなさい」と呼びかけた。そう、大越は「日々の新聞」に記事を書いた。
6 農家も不安は同じ(5月20日) ◇No.1278
「いわき放射能市民測定室たらちね」の事務局長を務める鈴木薫(49)だが、福島第一原発の事故当時から食品の安全性に敏感だったわけではない。長女(21)が高校生だったこともあり、水道水ではなくペットボトルの水を飲むようにするとか、食品の産地に気をつけるとかいった程度だった。
食品の安全性が気になりだしたのは、2011年5月15日の「さよなら原発パレード」の直前。いわき市長に申入書を渡そうと、子どもを放射能から守るための10項目の要望を考えた時だ。申入書には、学校の放射線量を保護者が確認できる仕組みづくりや、給食で使う水や食材の産地と放射線量の公開を書き込んだ。
子どもに何を食べさせるかがどれほど重要か。自分で書きながら強く意識し始めた。
そんな5月末、福島市で放射能測定器のワークショップがあり、鈴木も参加することになる。フランス人技術者が持ち込んだ簡易型の測定器で、参加者が持参した食品を実際に測る。これを通じて放射線の基礎知識や測定方法を学ぶものだった。
市民が使える測定器があることを、鈴木はここで初めて知った。会場の会議室は満席で、野菜や米、卵、水などを抱えた人が所狭しと座り込み、通路を埋めた。福島県の中央部、中通りの農家の人が多いようだった。
政府は3月23日、福島県産の野菜の一部について、摂取制限を指示していた。するとその翌日、須賀川市の有機農家の男性が自殺。農家に不安が広がっていた。そんな会場で、鈴木は、いわきの状況を話すよう急に頼まれる。海沿いの浜通りから来ていたことでマイクを振られたらしい。
戸惑いつつ、いわき市長への要望も踏まえて話した。「これから子どもの給食の食材がどうなるか心配です」話しながら、農家の人を前に、「給食の食材が心配」などと言っていいのか、ふと疑問がわいた。だがみんな、うなずきながら自分の話を真剣に聞いてくれた。
生産者も消費者も、同じ地域住民として、将来の見えない不安な思いは同じなんだ。胸がいっぱいになり、涙が出そうになったのを、ぐっとこらえた。
7 しゃべり続けた末に(5月21日)◇No.1279
http://www.asahi.com/articles/DA3S11764996.html
東日本大震災から4カ月たった2011年7月11日。福島県いわき市で、市民の手による放射能測定室の設立に向けた準備会が開かれた。呼びかけたのは、いわき市議の佐藤和良(61)。
福島第一原発の事故前から脱原発運動に携わってきた。市議として行政の仕組みもわかっていた。行政による放射能汚染のモニタリング体制はすぐには整わないだろう。事故後の政府の対応も不信感を募らせた。「自分の身は自分で守るしかない。住民の手で信頼できる仕組みを作らないと」
そこで、声をかけたうちの一人が鈴木薫(49)だった。5月に開いた「さよなら原発パレード」に500人を集めた行動力を買ってのことだった。子どもを心配する母親としての思い。福島市のワークショップで出会った農家の人たちの必死なまなざし。鈴木は、切羽詰まった気持ちで参加した。
10月9日。設立総会にこぎつけ、約70人が集まった。理事には佐藤ら地元市議や福祉関係者、エステ経営者ら様々な分野の人が名を連ねた。事務局長には鈴木が就いた。
当初の専従スタッフは4人。その1人で、今年4月まで勤めた酒井明子(さかいあきこ)(43)には、当時小学生だった娘が2人いる。原発事故後は新潟県湯沢町に避難したが、仕事の関係で先に戻った夫(50)を子どもたちが恋しがり、5月にいわきに帰った。
東日本大震災から4カ月たった2011年7月11日。福島県いわき市で、市民の手による放射能測定室の設立に向けた準備会が開かれた。呼びかけたのは、いわき市議の佐藤和良(61)。
福島第一原発の事故前から脱原発運動に携わってきた。市議として行政の仕組みもわかっていた。行政による放射能汚染のモニタリング体制はすぐには整わないだろう。事故後の政府の対応も不信感を募らせた。「自分の身は自分で守るしかない。住民の手で信頼できる仕組みを作らないと」
そこで、声をかけたうちの一人が鈴木薫(49)だった。5月に開いた「さよなら原発パレード」に500人を集めた行動力を買ってのことだった。子どもを心配する母親としての思い。福島市のワークショップで出会った農家の人たちの必死なまなざし。鈴木は、切羽詰まった気持ちで参加した。
10月9日。設立総会にこぎつけ、約70人が集まった。理事には佐藤ら地元市議や福祉関係者、エステ経営者ら様々な分野の人が名を連ねた。事務局長には鈴木が就いた。
当初の専従スタッフは4人。その1人で、今年4月まで勤めた酒井明子(さかいあきこ)(43)には、当時小学生だった娘が2人いる。原発事故後は新潟県湯沢町に避難したが、仕事の関係で先に戻った夫(50)を子どもたちが恋しがり、5月にいわきに帰った。
だが放射能汚染を考えると、子どもたちの将来が不安で、自分の決断が正しかったか悩み続けた。そんな姿をみて夫が勧めてくれたヨガ教室で、指導していた鈴木と出会い、「たらちね」に加わることになる。放射能をやみくもに怖がるより、自分で測って危険かどうか判断するほうが、子どもを守ることにつながると酒井は考えた。酒井は測定の担当になり、2週間の訓練を受けた。
11月13日。測定室がオープンすると住民が殺到した。最初は食品の測定器が2台と、全身の内部被曝(ひばく)を測るホールボディーカウンターが1台。たちまち予約が3カ月待ちになる。来客も電話も途切れず、しゃべり続けた酒井はろれつが回らなくなった。心配した別のスタッフが電話線を引っこ抜き、「少し休憩して」と言ってくれた。
11月13日。測定室がオープンすると住民が殺到した。最初は食品の測定器が2台と、全身の内部被曝(ひばく)を測るホールボディーカウンターが1台。たちまち予約が3カ月待ちになる。来客も電話も途切れず、しゃべり続けた酒井はろれつが回らなくなった。心配した別のスタッフが電話線を引っこ抜き、「少し休憩して」と言ってくれた。
食品中の放射能の測定器 8 男の人がいなくても(5月22日) ◇No.1280 http://www.asahi.com/articles/DA3S11767140.html 2011年11月、福島県いわき市に誕生した放射能市民測定室。たちまち予約が3カ月待ちになり、支援者が装置を追加購入してくれた。それほど住民が待ち望んだ施設だった。ここを「たらちね」と呼ぶようになったのは、設立時にデータベースを構築した男性の発案だ。データベースに付けた愛称がそのまま組織の呼び名になった。 短歌で「母」の枕詞(まくらことば)として登場する「たらちね」だが、「たらちねの母って、やさしい母ではなくて、怖いお母さんなんです」。事務局長の鈴木薫(49)はそう話す。万葉集に出てくる「たらちね」の母は「怖い」「頼りになる」といったイメージが多いという。そんな女性像に、原発事故後の母親たちの姿を重ねた。 「自分の子に何を食べさせていいか確認する測定室。女性の必死な思いが際だつのは事実です」専従スタッフが女性ばかり4人だったころ、理事会では「男の人もいたほうがいいんじゃないの」という意見も出た。だが、鈴木は「いりません」と断っている。女性だけで困るようなことはない。 そんな「たらちね」の特徴の一つは独立独歩の色彩が強いことだ。全国26カ所の市民放射能測定室が、食品や土壌の測定データを共有している。「たらちね」もこれらの団体と友好関係にあるが、データについては、自分たちで測定したものだけを公開すると決めている。 データを住民や地域の自治体と共有し、子どもたちの暮らしに反映させるのが「たらちね」の目的だ。「子どもには環境を選ぶ自由がないことを考えて、地元で多くの人と協力して守っていくことを第一に考えているんです」 人体の内部被曝(ひばく)を測るホールボディーカウンター(WBC)についても、その性能や測定値に関する会議が何度か開かれているが、「たらちね」は参加していない。ホームページ(http://www.iwakisokuteishitu.com/)に食品や土壌の分析結果は載せているが、WBCについては検査人数だけを事業実績として公開している。WBCのデータは測定を受けた個人のものであり、特別な理由がない限り、個別のデータは公表しない。 測定を受ける人との信頼関係を最優先して、そんな方針を厳密に守っている。 9 知識や情報で力に(5月23日)◇No.1281 |
http://www.asahi.com/articles/DA3S11769091.html
子どもを必死に守る強い母親。そんなイメージで「たらちね」の愛称がついた放射能市民測定室。福島県いわき市に開設した直後の2011年12月、野崎亜由美(のざきあゆみ)(30)がスタッフに加わった。
野崎は福島第一原発の事故当時、第2子の妊娠6カ月だった。長男は1歳。ガソリンがなくなって立ち往生するよりはと市内にとどまった。3月中は、病院に行く以外は一歩も外に出なかった。7月、出産と同時にそれまでの勤めを辞めた。再就職を考え始めた頃、いきつけのエステ店で、経営者の飯塚友理子(いいづかゆりこ)(52)に、まつげパーマを受けながら「たらちね」のスタッフにならないかと誘われた。
飯塚は「たらちね」の副理事長の1人。放射能汚染が不安だった野崎は誘いを受けた。以来、家族で食べる米も、水も必ず持ち込んで測るようにした。
働き始めると、野崎が受け持つ仕事はどんどん変わっていった。データ入力、食材測定、ホールボディーカウンター、土壌測定、甲状腺検査……。事業の拡大に伴い、身につける知識も広がっていく。
14年11月、各地の市民測定室の研究交流会が東京で開かれた。野崎は当時、測定主任として出席。市民団体で初めて、β線の測定施設「βラボ」を開設する意義や、設備の詳細についてよどみなく説明した。
仕事を離れても、お母さん仲間にとって、野崎は頼れる相談相手だ。遠足に行く場所は安全なのか、公園でお弁当を食べていいのか、給食の食材は大丈夫か。むやみに心配するのも、ただ大丈夫というのも、どうかと思う。「ここの放射線量はそう高くないけど、震災前よりは高いですよ」野崎の情報は、子どもをどう遊ばせるかを決める判断材料になる。
お母さん仲間には、自宅で食べる食材が自由に選べないという悩みも少なくない。近くの山で採れた山菜は、測ってみると放射線量が高い場合がある。家族が採ってきてそのまま子どもに食べさせても、家の中ではなかなか言い出せない。
「正しく子どもを守るには知識や情報が必要。漠然と悩んでいる人が多いけれど、きちんと把握した方がもやもやした不安がなくなると思うんです」そんな思いが「たらちね」を貫いている。
10 校庭の線量確かめる(5月24日)◇No.1282
http://www.asahi.com/articles/DA3S11770975.html
福島県いわき市にある放射能の市民測定室「たらちね」は、様々な形で利用されている。
千葉由美(ちばゆみ)(45)は、市内の小中学校や幼稚園などの校庭の放射線量を測っている。
2011年3月11日の震災後、福島市の実家に子ども3人と避難した。3月下旬、まもなく小学4年になる一番下の次女(13)の学校から、4月6日に予定通り始業式をすると連絡がきた。「えっ。もう?」驚いた。校庭の放射能汚染は? 給食は? すべてが不安なまま納得するわけにいかなかった。
行動にスイッチが入った。いわきに戻った翌5月、福島市の市民団体からガイガーカウンターを借りて、依頼を受けた人の家の線量を隅々まで測定する活動を始めた。
母親同士で助け合うための「カフェイベント」も開いた。
次女は1学期の最初の1カ月、学校を休ませた。その後も持参の弁当を食べさせ、体育などの屋外活動にも参加させなかった。ここまでしたのはクラスで1人だけだったが、翌春のクラス替えで、別の組にいた弁当持参の子と一緒になると知り、母娘で喜んだ。
ところが始業式翌日、次女は帰宅すると階段を駆け上がり、自室で大泣きした。その子が今後は給食を食べ、屋外活動にも参加するという。千葉も一緒に泣いた。その後は次女への「制限」を解いた。
だがこれで、千葉の活動はむしろパワーアップした。
13年2月、「いわきの初期被曝(ひばく)を追及するママの会」をつくる。事故直後の被曝量がわからない以上、これ以上被曝させられない。メンバー約30人で、市長に土壌調査などを求める公開質問状を出した。
さらに「ママの会」の中に「TEAMママベク子どもの環境守り隊」をつくった。校庭に1台ずつ放射線のモニタリングポストが置かれたが、子どもはポストのそばで遊ぶわけではない。校庭の除染は済んだというが、くまなく測って確かめたい。市に測定を認めてもらい、採取した土を「たらちね」に持ち込んだ。
当時の全75小学校のうち19校で、空間線量が国による除染の長期目標を超えた。最も線量が高かった学校は運動会前に市が追加で除染した。「データはうそをつかない。実態を知ると暮らし方が違います」千葉たちの取り組みは、まだ終わらない。
11 「β線を測らなきゃ」(5月25日) ◇No.1283
http://www.asahi.com/articles/DA3S11772414.html
食品5477件、土壌552件、ホールボディーカウンターが延べ2855人。福島県いわき市の放射能市民測定室「たらちね」が、2014年11月までの約3年間で手がけた放射能測定の件数だ。13年に始めた甲状腺検診も14年11月までに延べ5319人が受けた。
手がける事業はどんどん増えていった。だが、事務局長の鈴木薫(49)はまだ足りないことがあると危惧していた。「β線を測らなきゃ」
市民による放射能測定室は全国にあるが、測るのはγ線だけだ。測定器の使い方に習熟すれば素人でも測れるγ線と違い、β線は大規模な設備と時間、慎重な作業が必要で、専門機関しか手がけていない。放射性ヨウ素やセシウムはγ線の測定器で測れても、ストロンチウムやトリチウムはβ線を出す。
汚染の有無を知るにはβ線を測る必要がある。体内に入ると、長期間にわたって内部被曝(ひばく)を起こす心配がある。鈴木が出会った専門家らは誰もがβ線測定の重要性を強調した。
その一人が、フォトジャーナリストの広河隆一(ひろかわりゅういち)(71)だ。「たらちね」ができる前の11年6月、鈴木は広河をいわきに招いて講演会を開いた。
チェルノブイリ原発事故の取材で知られる広河は、1991年に「チェルノブイリ子ども基金」を創設。幾度も現地に通って取材や支援を続けてきた。「たらちね」の測定器も、広河が呼びかけてつくった「DAYS放射能測定器支援募金」からの寄付などで購入している。
その広河がベラルーシにあるバターやチーズの加工工場を取材したときのことだ。周囲の牧場からタンクで持ち込まれた牛乳を、放射能を測って基準値以上だと廃棄していた。広河が「これくらいしているから安全ですね」と声をかけると、女性の検査技師は「まだ危険。γ線の測定だけですから。装置がなくストロンチウムがあるかどうかわからないんです」と答えた。
米国で核兵器工場を取材した時も、トリチウムを扱う人が厳重に防護服を着込んでいた。鈴木はそうした話をしっかり受け止めていた。
14年4月、「たらちね」の理事会で、新たな取り組みとしてβ線の測定を提案した。だが、他の理事が猛反対した。
12 そして道が開けた(5月26日)◇No.1284
http://www.asahi.com/articles/DA3S11773660.html
「β線を測りたいんですけど」2014年春、「いわき放射能市民測定室たらちね」の理事会で、事務局長の鈴木薫(49)が提案した。理事長で歯科医の織田好孝(おだよしたか)(66)は大反対した。線は測定技術が非常に難しく、強酸など危険な薬品を扱う。数千万円の設備投資も必要だ。
「測定が必要なことはわかっていたけれど、お母さんたち中心のスタッフでできるとは思えなかった」織田によれば、理事会の半分くらいは反対した。反対すればあきらめると思っていた。
だが鈴木はあきらめなかった。測定を引き受けてくれそうな機関を探した。感触のよい分析機関もあったが、1検体20万円、結果が出るまで数週間と聞いて断念した。
一般の住民が身近な食べ物や水を測れるようにするのが目的だ。安く短期間で測れないと意味がない。
講演会に招いたことがある、京都大学原子炉実験所助教の今中哲二(いまなかてつじ)(64)に相談した。今中が紹介してくれたのが、天野光(66)だった。
茨城県東海村の日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)で、環境中のストロンチウムやトリチウムなどの分析に携わった専門家だ。
天野は、原子力の世界が面白そうだと、1967年に東北大学原子核工学科に入学。当時、宮城県で東北電力女川原発の建設計画が持ち上がっており、反対運動をしている漁民に話を聞きにいったこともある。
原子力機構を定年退職後の11年3月、福島第一原発が爆発した映像を見る。福島のために何かできないかと思い続けていたところに、鈴木からの協力依頼を受けた。
国内の多くの専門機関では、国が定めた測定方法を採用している。原発から放出された様々な種類の放射能を事故直後に測定するのに向いている。ただ、事前に試料を化学的に処理するのに多くの工程が必要で、時間も費用もかかる。
天野の頭の中には、鈴木の話を聞いた時から一つのアイデアが浮かんでいた。事故から数年たつこともあり、半減期の短い放射能は消えている。測定方法を簡略化すれば、安く、短期間で測定できる。
天野というプロが加わった。
約3800万円の資金も、鈴木がフォトジャーナリスト広河隆一(71)らの協力で方々から集めてきた。
織田たちも、もう反対できなかった。「大したもんだなと思いました」
13 福島の子に保養を(5月27日)◇No.1285
http://www.asahi.com/articles/DA3S11775454.html
福島県の「いわき放射能市民測定室たらちね」は、放射能の測定だけでなく、福島の子どもたちが沖縄県の久米島で保養する事業にも参加している。行き先は、フォトジャーナリストの広河隆一(71)が理事長を務めるNPO法人「沖縄・球美(くみ)の里」。親子で、あるいは子どもだけで約10日間、自然の中ですごす。
広河が保養プロジェクトに乗り出したのは、1986年のチェルノブイリ原発事故の取材で、子どもたちが放射能の心配のない環境ですごす重要性を知ったからだ。これまでの実績から、免疫力が増加するなどの効果があることがわかっている。それに、自然の中でのびのび遊ぶことが、心身に良い影響があるとされる。
ベラルーシでは、汚染地域に住む子どもに年2回(現在は年1回)、汚染のない土地で保養する権利があるという。
広河も91年に「チェルノブイリ子ども基金」を作り、ベラルーシの子ども保養センター「ナデジダ」の建設や運営を支援してきた。ここでは20年間で約6万人が保養している。
広河は、福島の子どもたちの保養先は沖縄がいいと考えた。「自然のエネルギーが違う。沖縄の10日間はすばらしい効果を与える」沖縄には、原発もない。
旧知の元沖縄県知事、大田昌秀(おおたまさひで)(89)に相談。大田は出身地の久米島を推薦した。「米軍基地のない離島がいい」沖縄の子どもたちも、基地によるストレスを抱えているからだ。
広河は陶芸工房だった建物と土地を買い取った。津波の被害を受けた子もいることを考え、海から数キロ離れた丘の上だ。遠くに、観光地として知られる白い砂州「ハテの浜」が見える。
ロゴを友人の宮崎駿(みやざきはやお)(74)が描いてくれた。久米島町の教育委員会の協力も得た。
福島の子どもを学校単位で受け入れたかったが、測定室の準備段階から応援してきた「たらちね」にいわき事務局を置き、参加者を募ることにした。
第1回は2012年7月。広河は、福島県の地元紙に参加者募集の広告を頼んだ。だが「保養」の文字を別の言葉にできないかとやんわりと言われたという。「子どもたちのリフレッシュプロジェクト」という名称で広告は掲載された。
14 砂まみれだって安心(5月28日)◇No.1286
http://www.asahi.com/articles/DA3S11777447.html
沖縄県久米島。福島の子どものための保養施設、NPO法人「沖縄・球美(くみ)の里」はここにある。子どもたちに、放射能の心配のない環境で過ごしてもらう。
1回10日前後。2012年から今年5月までに計44回、保護者も含めて延べ約1900人が参加した。
子どもの交通費と滞在費は無料。保護者が付きそう場合、交通費は負担してもらう。費用は寄付金で賄う。
今年2月の回には8カ月~11歳の子ども24人と母親13人が参加した。福島から飛行機を乗り継ぎ、丸1日かけて久米島へ。「球美の里」へは空港からバスで20分ほどだ。
緑濃い木々に囲まれた2階建ての建物に宿泊室と食堂。約7200平方メートルの敷地には、おもちゃが詰まったピラミッド型の建物や、眺めの良いカフェを備えた図書室もある。
焼き物づくりを体験したり、近所の芝生の広場や美しい砂浜の広がるビーチで遊んだり。食事は新鮮な地元産を使った沖縄料理が中心で、食品添加物などは使わない。
滞在2日目。朝から一日中、砂場から離れない5歳の双子の男の子がいた。服まで砂まみれで夢中になって遊び続ける。そんな姿に、福島県鏡石町から参加した母親の片桐(かたぎり)さやか(32)は顔をほころばせた。
「外の砂場には連れていってなかったので。屋内施設の砂場には行ったけれど、肌触りが違う」
11年3月の福島第一原発事故後、仕事のある夫を置いて避難すれば、1人でまだ1歳の双子の面倒を見ることになるため、不安で地元を動けなかった。ただ、それで良かったのかと心は揺れ動いた。「全身で遊んで楽しそう。本当に来て良かった」
スタッフは正職員が事務担当や看護師ら5人。パートや島内外からのボランティアも加わり、子どもたちを常時十数人が見守る。
後藤岳彦(ごとうたけひこ)(40)は岩手県大槌町出身。東京のレストランに勤めていた時に東日本大震災が起きた。翌日バイクで実家に戻ると、がれきの間から遺体がのぞき、まだ生存者もいた。助けたくても助けられなかった。「地獄絵だった」
人生観が一変。自分と家族のためだけでなく生きたいと思うようになる。ネットで調理師募集を知り、昨年6月、久米島に来た。
「将来、子どもたちが頑張って生きていくために、少しでも役に立てたら」
15 思いを語りあった(5月29日) ◇No.1287
http://www.asahi.com/articles/DA3S11779407.html
沖縄県の離島、久米島にあるNPO法人「沖縄・球美(くみ)の里」。福島の子どもたちが自然の中でのびのびと、放射能を気にせずに10日ほどすごすための施設だ。
2月の保養2日目の夜、母親たちの交流会が開かれた。子どもらは寝静まり、スタッフが見守っている。
理事長でフォトジャーナリストの広河隆一(71)が、中東・パレスチナの取材から戻った足でかけつけ、保養の意義を説明した。
危機管理とは予想される悪いことと良いことの両方に足をかけて、特に悪い方に転んだ時に備えること。たとえ悪い方に転んでも病気になりにくい体を作ることです」
「お母さん同士、何でも話し合って大丈夫な関係を作ってほしい」
次いで母親たちの自己紹介。1人目は、いわき市から来ていた。
「地元はそんなに(放射能の)数値が高くないんですが、親としてはすごく心配で、今も水道水を飲ませていないんです」話し始めたとたん、言葉に詰まって涙声になった。
チェルノブイリ原発事故の取材で知られる広河は、1991年に「チェルノブイリ子ども基金」を創設。幾度も現地に通って取材や支援を続けてきた。「たらちね」の測定器も、広河が呼びかけてつくった「DAYS放射能測定器支援募金」からの寄付などで購入している。
その広河がベラルーシにあるバターやチーズの加工工場を取材したときのことだ。周囲の牧場からタンクで持ち込まれた牛乳を、放射能を測って基準値以上だと廃棄していた。広河が「これくらいしているから安全ですね」と声をかけると、女性の検査技師は「まだ危険。γ線の測定だけですから。装置がなくストロンチウムがあるかどうかわからないんです」と答えた。
米国で核兵器工場を取材した時も、トリチウムを扱う人が厳重に防護服を着込んでいた。鈴木はそうした話をしっかり受け止めていた。
14年4月、「たらちね」の理事会で、新たな取り組みとしてβ線の測定を提案した。だが、他の理事が猛反対した。
12 そして道が開けた(5月26日)◇No.1284
http://www.asahi.com/articles/DA3S11773660.html
「β線を測りたいんですけど」2014年春、「いわき放射能市民測定室たらちね」の理事会で、事務局長の鈴木薫(49)が提案した。理事長で歯科医の織田好孝(おだよしたか)(66)は大反対した。線は測定技術が非常に難しく、強酸など危険な薬品を扱う。数千万円の設備投資も必要だ。
「測定が必要なことはわかっていたけれど、お母さんたち中心のスタッフでできるとは思えなかった」織田によれば、理事会の半分くらいは反対した。反対すればあきらめると思っていた。
だが鈴木はあきらめなかった。測定を引き受けてくれそうな機関を探した。感触のよい分析機関もあったが、1検体20万円、結果が出るまで数週間と聞いて断念した。
一般の住民が身近な食べ物や水を測れるようにするのが目的だ。安く短期間で測れないと意味がない。
講演会に招いたことがある、京都大学原子炉実験所助教の今中哲二(いまなかてつじ)(64)に相談した。今中が紹介してくれたのが、天野光(66)だった。
茨城県東海村の日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)で、環境中のストロンチウムやトリチウムなどの分析に携わった専門家だ。
天野は、原子力の世界が面白そうだと、1967年に東北大学原子核工学科に入学。当時、宮城県で東北電力女川原発の建設計画が持ち上がっており、反対運動をしている漁民に話を聞きにいったこともある。
原子力機構を定年退職後の11年3月、福島第一原発が爆発した映像を見る。福島のために何かできないかと思い続けていたところに、鈴木からの協力依頼を受けた。
国内の多くの専門機関では、国が定めた測定方法を採用している。原発から放出された様々な種類の放射能を事故直後に測定するのに向いている。ただ、事前に試料を化学的に処理するのに多くの工程が必要で、時間も費用もかかる。
天野の頭の中には、鈴木の話を聞いた時から一つのアイデアが浮かんでいた。事故から数年たつこともあり、半減期の短い放射能は消えている。測定方法を簡略化すれば、安く、短期間で測定できる。
天野というプロが加わった。
約3800万円の資金も、鈴木がフォトジャーナリスト広河隆一(71)らの協力で方々から集めてきた。
織田たちも、もう反対できなかった。「大したもんだなと思いました」
13 福島の子に保養を(5月27日)◇No.1285
http://www.asahi.com/articles/DA3S11775454.html
福島県の「いわき放射能市民測定室たらちね」は、放射能の測定だけでなく、福島の子どもたちが沖縄県の久米島で保養する事業にも参加している。行き先は、フォトジャーナリストの広河隆一(71)が理事長を務めるNPO法人「沖縄・球美(くみ)の里」。親子で、あるいは子どもだけで約10日間、自然の中ですごす。
広河が保養プロジェクトに乗り出したのは、1986年のチェルノブイリ原発事故の取材で、子どもたちが放射能の心配のない環境ですごす重要性を知ったからだ。これまでの実績から、免疫力が増加するなどの効果があることがわかっている。それに、自然の中でのびのび遊ぶことが、心身に良い影響があるとされる。
ベラルーシでは、汚染地域に住む子どもに年2回(現在は年1回)、汚染のない土地で保養する権利があるという。
広河も91年に「チェルノブイリ子ども基金」を作り、ベラルーシの子ども保養センター「ナデジダ」の建設や運営を支援してきた。ここでは20年間で約6万人が保養している。
広河は、福島の子どもたちの保養先は沖縄がいいと考えた。「自然のエネルギーが違う。沖縄の10日間はすばらしい効果を与える」沖縄には、原発もない。
旧知の元沖縄県知事、大田昌秀(おおたまさひで)(89)に相談。大田は出身地の久米島を推薦した。「米軍基地のない離島がいい」沖縄の子どもたちも、基地によるストレスを抱えているからだ。
広河は陶芸工房だった建物と土地を買い取った。津波の被害を受けた子もいることを考え、海から数キロ離れた丘の上だ。遠くに、観光地として知られる白い砂州「ハテの浜」が見える。
ロゴを友人の宮崎駿(みやざきはやお)(74)が描いてくれた。久米島町の教育委員会の協力も得た。
福島の子どもを学校単位で受け入れたかったが、測定室の準備段階から応援してきた「たらちね」にいわき事務局を置き、参加者を募ることにした。
第1回は2012年7月。広河は、福島県の地元紙に参加者募集の広告を頼んだ。だが「保養」の文字を別の言葉にできないかとやんわりと言われたという。「子どもたちのリフレッシュプロジェクト」という名称で広告は掲載された。
14 砂まみれだって安心(5月28日)◇No.1286
http://www.asahi.com/articles/DA3S11777447.html
1回10日前後。2012年から今年5月までに計44回、保護者も含めて延べ約1900人が参加した。
子どもの交通費と滞在費は無料。保護者が付きそう場合、交通費は負担してもらう。費用は寄付金で賄う。
今年2月の回には8カ月~11歳の子ども24人と母親13人が参加した。福島から飛行機を乗り継ぎ、丸1日かけて久米島へ。「球美の里」へは空港からバスで20分ほどだ。
緑濃い木々に囲まれた2階建ての建物に宿泊室と食堂。約7200平方メートルの敷地には、おもちゃが詰まったピラミッド型の建物や、眺めの良いカフェを備えた図書室もある。
焼き物づくりを体験したり、近所の芝生の広場や美しい砂浜の広がるビーチで遊んだり。食事は新鮮な地元産を使った沖縄料理が中心で、食品添加物などは使わない。
滞在2日目。朝から一日中、砂場から離れない5歳の双子の男の子がいた。服まで砂まみれで夢中になって遊び続ける。そんな姿に、福島県鏡石町から参加した母親の片桐(かたぎり)さやか(32)は顔をほころばせた。
「外の砂場には連れていってなかったので。屋内施設の砂場には行ったけれど、肌触りが違う」
11年3月の福島第一原発事故後、仕事のある夫を置いて避難すれば、1人でまだ1歳の双子の面倒を見ることになるため、不安で地元を動けなかった。ただ、それで良かったのかと心は揺れ動いた。「全身で遊んで楽しそう。本当に来て良かった」
スタッフは正職員が事務担当や看護師ら5人。パートや島内外からのボランティアも加わり、子どもたちを常時十数人が見守る。
後藤岳彦(ごとうたけひこ)(40)は岩手県大槌町出身。東京のレストランに勤めていた時に東日本大震災が起きた。翌日バイクで実家に戻ると、がれきの間から遺体がのぞき、まだ生存者もいた。助けたくても助けられなかった。「地獄絵だった」
人生観が一変。自分と家族のためだけでなく生きたいと思うようになる。ネットで調理師募集を知り、昨年6月、久米島に来た。
「将来、子どもたちが頑張って生きていくために、少しでも役に立てたら」
15 思いを語りあった(5月29日) ◇No.1287
http://www.asahi.com/articles/DA3S11779407.html
沖縄県の離島、久米島にあるNPO法人「沖縄・球美(くみ)の里」。福島の子どもたちが自然の中でのびのびと、放射能を気にせずに10日ほどすごすための施設だ。
2月の保養2日目の夜、母親たちの交流会が開かれた。子どもらは寝静まり、スタッフが見守っている。
理事長でフォトジャーナリストの広河隆一(71)が、中東・パレスチナの取材から戻った足でかけつけ、保養の意義を説明した。
危機管理とは予想される悪いことと良いことの両方に足をかけて、特に悪い方に転んだ時に備えること。たとえ悪い方に転んでも病気になりにくい体を作ることです」
「お母さん同士、何でも話し合って大丈夫な関係を作ってほしい」
次いで母親たちの自己紹介。1人目は、いわき市から来ていた。
「地元はそんなに(放射能の)数値が高くないんですが、親としてはすごく心配で、今も水道水を飲ませていないんです」話し始めたとたん、言葉に詰まって涙声になった。
「政府は安全だと言うけれど、心配なことが多々あって……」後に続いた人たちも、せきを切ったように思いを口にした。
「最近は外遊びもするけれど、夜になると『目に砂が入ったけど大丈夫かな』と不安になる」
「原発事故後に妊娠に気づいた時が一番怖かった」
「子どもの保育園の友達が避難して、いなくなったのが切なくて。残った自分の判断が正しかったのか」
家族関係の悩みも多かった。
「福島で生きていくことへの不安を夫が理解してくれない」
「食べ物への考え方が夫や義理の父母と違う。どの程度食べさせていいのか考えるのが一番のストレス」
参加した10人ほどのほぼ半数が、話ながら目に涙を浮かべた。
「(放射能を)気にしていないかもしれない人に自分の思ったままを話すと、『何々さんのママは気にしているからね』とか言われるかもしれない。だから、話せない」
「お母さん同士で話す機会がこれまで一度もなかった」
次第に前向きな気持ちも見えた。
「保養に何か罪悪感を感じていたけれど、この2日間だけでも来て良かったと気持ちが変わりました」
「娘はふだん、もじもじしているのに、きょうは自分から他の子を『行こう』と誘っていた。積極的な面が見えて万々歳!」
今年2月、沖縄・久米島の保養施設「球美(くみ)の里」。濃い緑に囲まれた外庭で、男の子に交じっておもちゃの車を乗り回す女の子がいた。福島県郡山市から参加した佐藤上総(さとうかずさ)(6)だ。母親(44)は「男の子みたいな遊びが好きなんです」と目を細める。
「最近は外遊びもするけれど、夜になると『目に砂が入ったけど大丈夫かな』と不安になる」
「原発事故後に妊娠に気づいた時が一番怖かった」
「子どもの保育園の友達が避難して、いなくなったのが切なくて。残った自分の判断が正しかったのか」
家族関係の悩みも多かった。
「福島で生きていくことへの不安を夫が理解してくれない」
「食べ物への考え方が夫や義理の父母と違う。どの程度食べさせていいのか考えるのが一番のストレス」
参加した10人ほどのほぼ半数が、話ながら目に涙を浮かべた。
「(放射能を)気にしていないかもしれない人に自分の思ったままを話すと、『何々さんのママは気にしているからね』とか言われるかもしれない。だから、話せない」
「お母さん同士で話す機会がこれまで一度もなかった」
次第に前向きな気持ちも見えた。
「保養に何か罪悪感を感じていたけれど、この2日間だけでも来て良かったと気持ちが変わりました」
「娘はふだん、もじもじしているのに、きょうは自分から他の子を『行こう』と誘っていた。積極的な面が見えて万々歳!」
16 自然の力ってすごい(5月30日)◇No.1288
http://www.asahi.com/articles/DA3S11781407.html
今回が3回目。一緒に参加した福島県の親子13組の中では最も多い。
17 甲状腺検診に殺到(5月31日)◇No.1289
http://www.asahi.com/articles/DA3S11783297.html
福島県から「沖縄・球美の里」を訪れる人には、子どもたちが自然の中でのびのびとすごす「保養」以外に、もう一つの目的がある。医師による子どもたちの甲状腺の検診だ。
「球美の里」は2012年7月の保養開始時から、市民団体では珍しい甲状腺検診を始めた。島根県などから専門医が来て検査、説明する。
「球美の里」のいわき事務局を兼ねる「放射能市民測定室たらちね」でも、13年3月に始めた。
事務局長の鈴木薫(49)によると、「球美の里」に協力していた病院の都合で、久米島での検診が一時中断したのがきっかけだ。
福島県では11年10月から、原発事故当時18歳以下だった県民を対象にした甲状腺検査をしている。1回目の検査は一巡するのに14年3月までかかり、いわき市などにはなかなか順番が回ってこなかった。その後の検査も20歳になるまで2年おき、その後は5年おきだ。検査を受けてもその場での説明はなく、判定結果が2カ月ほどたってから郵送される。
このため、保護者の間で、受けたい時に受けたい、検査結果の詳しい説明もほしいとの要望が強かった。とはいえ鈴木は、最初は自分たちで手がけるつもりはなかった。食品の放射能測定器やホールボディーカウンターは、訓練を積めば素人でも扱える。だが、甲状腺を超音波で検査するには医師などの専門的な資格や知識が必要だ。
まずは大学病院に協力してもらおうと思い、首都圏のいくつかの大学病院に手紙を送ったり、電話したりした。しかし、「多忙のため」などと断られた。前向きな大学もあったが、平日の検診が条件だった。親が子どもを連れて来ることを考えると、週末に検診日を設定したかった。
自分たちで取り組むことにした。しかし、医師の協力がいる。理事長で歯科医の織田好孝(66)が市内の医師数人に相談したが、協力を得られなかった。
鈴木は、つてをたどって医師6人を確保した。県内1人、北海道3人、島根県から2人が謝礼なしでかけつける。検診を始めると予約がたちまち埋まった。「たらちね」の事務所だけでなく、県内各地に会場を借りた。
受検者は13年3~12月で3186人、14年1~11月も2133人に上った。
18 医師がその場で診断(6月1日)◇No.1290
http://www.asahi.com/articles/DA3S11784591.html
「いわき放射能市民測定室たらちね」の甲状腺検診には、福島県外を中心に6人の医師が協力している。その一人が、北海道がんセンター名誉院長の西尾正道(にしおまさみち)(68)だ。
札幌医大を卒業し、理詰めで考えられるからと放射線科を選ぶ。小さな針状にしたセシウム137を舌がんに埋め込むなど、放射線による内部被曝(ひばく)を利用したがん治療に熟達。約3万人の患者を診てきた。放射能を扱うことで自分自身もある程度被曝している。放射能や被曝に関する知識には自負がある。
原発事故後も自宅にとどまった。母親は自分の両親と同居しながら一人で子育てし、販売業の仕事をどうしてもやめたくなかった。地域は除染の順番が遅く、母親は上総をあまり外に出さない。体を動かさなくなり、身のこなしが不十分ではと気になる。寝付きも良くない。
だが久米島では、ご飯を食べるとすぐ寝てしまう。坂道を元気に駆け上がる。「自然の力ってすごい。お菓子やおもちゃがなくても楽しそう。いつも笑っている」
地元では放射能の話はしない。「気にしないようにしないと住んでいけないのかな」と思う。しかし「球美の里」では参加者同士で思ったことをそのまま話せる。スタッフも温かく接してくれる。「地元に戻ってもまた久米島に行けばいいと思える」
放射能に対する考え方は、参加者の間でもそれぞれに異なる。「福島にいる時もそれほど気にしていない。子どもが望むので外でもはだし」という母親もいる。
いわき市の根本文(ねもとふみ)(35)は3人の子がいる。親と離れたくなかったので、放射能とつきあっていくと決めた。そのかわり徹底的に対策をした。
自宅の畑を深さ20センチまで削った。野菜を作り、「球美の里」のいわき事務局でもある「放射能市民測定室たらちね」に持ち込み、放射能を測って安全性を確かめた。庭は砂利と人工芝にし、砂場は新潟の砂に替えた。保養に来たのは沖縄の海で遊ばせたかったからだ。
「どこまで正しいかわからないけど、これからも自分で許容範囲を決めてやっていきたい」
福島の子の保養を受け入れる市民団体は全国にあるが、「球美の里」のような恒常的な施設は少ない。
福島県も「ふくしまっ子体験活動」を行っている。泊まると1人5千円の補助が出る。「球美の里」もこの制度を利用することがある。他の施設に参加した母親らによると、子どもはゲームコーナーで遊んでいた。
「『球美の里』は自然も食べ物も開放感も全然違う」
17 甲状腺検診に殺到(5月31日)◇No.1289
http://www.asahi.com/articles/DA3S11783297.html
福島県から「沖縄・球美の里」を訪れる人には、子どもたちが自然の中でのびのびとすごす「保養」以外に、もう一つの目的がある。医師による子どもたちの甲状腺の検診だ。
「球美の里」は2012年7月の保養開始時から、市民団体では珍しい甲状腺検診を始めた。島根県などから専門医が来て検査、説明する。
「球美の里」のいわき事務局を兼ねる「放射能市民測定室たらちね」でも、13年3月に始めた。
事務局長の鈴木薫(49)によると、「球美の里」に協力していた病院の都合で、久米島での検診が一時中断したのがきっかけだ。
福島県では11年10月から、原発事故当時18歳以下だった県民を対象にした甲状腺検査をしている。1回目の検査は一巡するのに14年3月までかかり、いわき市などにはなかなか順番が回ってこなかった。その後の検査も20歳になるまで2年おき、その後は5年おきだ。検査を受けてもその場での説明はなく、判定結果が2カ月ほどたってから郵送される。
このため、保護者の間で、受けたい時に受けたい、検査結果の詳しい説明もほしいとの要望が強かった。とはいえ鈴木は、最初は自分たちで手がけるつもりはなかった。食品の放射能測定器やホールボディーカウンターは、訓練を積めば素人でも扱える。だが、甲状腺を超音波で検査するには医師などの専門的な資格や知識が必要だ。
まずは大学病院に協力してもらおうと思い、首都圏のいくつかの大学病院に手紙を送ったり、電話したりした。しかし、「多忙のため」などと断られた。前向きな大学もあったが、平日の検診が条件だった。親が子どもを連れて来ることを考えると、週末に検診日を設定したかった。
自分たちで取り組むことにした。しかし、医師の協力がいる。理事長で歯科医の織田好孝(66)が市内の医師数人に相談したが、協力を得られなかった。
鈴木は、つてをたどって医師6人を確保した。県内1人、北海道3人、島根県から2人が謝礼なしでかけつける。検診を始めると予約がたちまち埋まった。「たらちね」の事務所だけでなく、県内各地に会場を借りた。
受検者は13年3~12月で3186人、14年1~11月も2133人に上った。
18 医師がその場で診断(6月1日)◇No.1290
http://www.asahi.com/articles/DA3S11784591.html
「いわき放射能市民測定室たらちね」の甲状腺検診には、福島県外を中心に6人の医師が協力している。その一人が、北海道がんセンター名誉院長の西尾正道(にしおまさみち)(68)だ。
札幌医大を卒業し、理詰めで考えられるからと放射線科を選ぶ。小さな針状にしたセシウム137を舌がんに埋め込むなど、放射線による内部被曝(ひばく)を利用したがん治療に熟達。約3万人の患者を診てきた。放射能を扱うことで自分自身もある程度被曝している。放射能や被曝に関する知識には自負がある。
2011年3月の福島第一原発の事故後、自衛隊がヘリコプターで海水を注入する映像にショックを受けた。「十分遮蔽(しゃへい)せずに作業をしている。放射能防護の知識があるとは思えない」
北海道にも原発事故から避難してきた人たちがいた。頼まれて基礎的な話をするうちに、全国各地から講師に呼ばれるようになる。「たらちね」にも13年2月に招かれた。
「原発事故までは、放射線が人類にもたらす『光』を追っていた。気がつくと、事故後は『影』の部分を追い始めていたんです」
講演では、内部被曝のもつ意味や健康への影響、現在の科学で確実に言えること、言えないことを解説、どんな対策が必要かなどを話す。
13年3月、院長を5年務めたがんセンターを定年退職した。他の病院からの再就職の誘いを断り、講演や執筆活動に専念することにした。ちょうどそのころ「たらちね」が甲状腺検診を始め、しばしば福島に通うようになる。検診では超音波で甲状腺に異常がないかを調べ、診断する。
福島県は、事故当時18歳以下の県民を対象に11年10月から甲状腺の検査をしている。14年3月までの1回目は放射線技師が行い、約30万人が受検した。すぐ結果を知ることはできず、「A1」から「C」までの記号で書かれた判定結果が郵送で届いた。
また、13年11月に簡素化されるまでは、撮影した超音波画像を手に入れるには県個人情報保護条例に基づく手続きが必要だった。
「たらちね」では医師が直接検査、診断をし、その場で保護者に説明する。超音波の画像も渡す。
10代を中心に嚢胞(のうほう)や結節が見つかる場合が少なくない。西尾は「成長期によく見られるものです」などと丁寧に説明する。親たちは一様に安心した表情を見せる。
19 広がる検診会場(6月2日)◇No.1291http://www.asahi.com/articles/DA3S11785929.html
2013年3月、福島県いわき市内の事務所で始めた「放射能市民測定室たらちね」の甲状腺検診は、郡山市、二本松市、本宮市などへと開催場所を広げていった。いわき市外では、地域の公民館などで開くことが多い。
14年8月には初めて県外に出て、宮城県丸森町で検診をした。最初は福島県北部の町で開きたいと考えていたが、会場を借りられなかった。断った町に聞くと、担当者は「県の検査結果と、数値が異なると住民に説明が難しい」と話した。
福島県は、原発事故当時18歳以下だった約36万人全員を対象に2年に1度、甲状腺検査をしている。
「たらちね」事務局長の鈴木薫(49)は、自分たちで甲状腺を検査する目的について、「希望する人が、受けたい時に受けられるようにすることなんです」と話す。
今年3月29日。南相馬市で、浜通りの北部では初めての甲状腺検診をした。「たらちね」がいわき事務局を務める沖縄・久米島のNPO法人「球美の里」で、子どものための保養に参加して検診を受けた母親が、地元の南相馬市でも検診をしてほしいと希望したからだ。
たらちねは新聞にチラシを2万枚折り込み、50人ほどの参加を想定した。利用者は実際は22人だった。同じ日に、市内で他のイベントがいくつか開かれていた影響もあるようだった。それでも、「また来てくれるんですか」と鈴木に声をかけた母親がいた。鈴木は「ご要望があればうかがいます」と答えた。
孫2人を連れて訪れた女性(70)は、13年に南相馬市で収穫されたコメから基準値を超える放射能が見つかった問題を気にしていた。
「孫の1人が、学校の甲状腺検査で嚢胞(のうほう)があるけど再検査は必要ないと言われた。でも、動揺しますよ。今日は直接説明が聞けて良かった」
検査を担当したのは北海道がんセンター名誉院長の西尾正道(68)。検診後に同じ会場で講演した。用意した80席は半分も埋まらなかったが、会場から様々な発言があった。
「自宅近くを幹線道路が通る。原発周辺で作業した車が放射能のついたほこりを持ち込むのではないかと心配だ」「危険だと思ったらここで生活していられない」
6月の「たらちね」の甲状腺検診は、三春町や郡山市、伊達市、大玉村で開かれる。
20 子どもの未来のため(6月3日)◇No.1292
http://www.asahi.com/articles/DA3S11787884.html
住民の求めに応じて食品や土壌などの放射線量を測る市民測定室は、全国に100カ所以上あるとされる。福島県内にも10カ所ほどある。
福島第一原発の事故から4年以上たち、放出された放射性物質には半減期が短く、消滅したものもある。自治体が持つ測定器を住民が利用する体制も整ってきて、市民測定室の利用者は減る傾向にある。
市民測定室の一つ、福島市のNPO法人「ふくしま30年プロジェクト」も、最近は一般住民からの測定依頼は少ないという。今年3月、事務所を新設のインドアパークの一角に移した。親子連れや若者がスポーツを楽しむ屋内施設だ。
理事長の阿部浩美(あべひろみ)(45)はここで住民同士の交流活動に力を注ぐ。ランチを食べながらふだん話しにくいことも話し合う。
「交流のニーズは強いと思う。セシウム137の半減期は約30年。放射能について発信し続けることが必要で、そのための模索を続けたい」
阿部はβ線の測定も考えたことがあるが、測定の難しさや費用がかかることなどから断念した。「いわき放射能市民測定室たらちね」が4月に始めた測定だ。
「たらちね」の活動は食品測定とホールボディーカウンターに始まり、甲状腺検診、β線を測るβラボと広がっている。「多くの問題に追いかけられて対応しているうちに、ここまできたんです」と、事務局長の鈴木薫(49)は話す。
βラボには福島第一原発の周辺住民から、お茶や桑の葉、フキなどが持ち込まれている。測った結果、ストロンチウム90の値が事故前の水準の数十倍に達したものもあった。
「たらちね」では、βラボで海水を測ることも重要だと考えている。
今年2月には、汚染水の海洋流出を東京電力が公表していなかったことが発覚した。テクニカルマネジャーの天野光(66)は「原発は事故処理を模索中で中にはまだ大量の放射能がある。海の汚染は予断を許さない」と話す。
鈴木は言う。「事故から年月がたって世間の関心が薄れても、放射能は存在し続ける。必要とする人たちがいる限りにおいて、『たらちね』の活動は続いていくんです」
子どもたちの未来を守るために。
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