2015/12/20

<私の復興>再出発 通過点の一つ

2015年12月20日 河北新報
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201512/20151220_63012.html

◎震災4年半~群馬県高崎市「光洋愛成園」施設長 寺島利文さん

森の中の施設は、葉擦れの音や鳥のさえずりが聞こえた。

唱歌「ふるさと」のメロディーが流れた途端、施設長の寺島さんの脳裏に、突然失った古里の光景がよみがえった。福島を追われるように離れてから4年9カ月が過ぎた。

東京電力福島第1原発事故で福島県富岡町にあった知的障害者施設「光洋愛成園」は、300キロ離れた群馬県高崎市に避難した。

その避難先で6日、小さな演奏会があった。東日本大震災前から交流がある仙台市の市民楽団「太白ウインドアンサンブル」のメンバーが慰問に訪れた。利用者と耳を傾けた「ふるさと」。調べは心に強く響いた。

光洋愛成園はいま、福島での再出発を期し、富岡町と同じ双葉郡の広野町に新しい入所施設やグループホームを建設している。

富岡は全町避難が続いたままだが、2012年3月に避難指示が解除された広野になら帰れる。新しい施設は来春に完成の予定だ。


「5年は長かった。来年は福島で会おう」。寺島さんは団員たちと固い約束を交わした。

知的障害がある人たちと鈴を鳴らしながら演奏を楽しむ寺島さん=6日、群馬県高崎市
高崎にたどり着いたのは原発事故の1カ月後だった。

震災翌日の早朝、消防団員の呼び掛けに耳を疑った。「原発が危ない。急いで避難を」。余震と停電が続き、消防署からも避難を指示され覚悟を決めた。

利用者や職員ら81人をマイクロバスなど7台に乗せ、国道288号を西へ。全員一緒に身を寄せられる避難所を探した。

「環境が変わるストレスを考えればみんな同じ場所でなければ」。突然の逃避行に利用者たちも過敏になっていた。どうしても譲れない条件だった。

何とか福島県三春町の生涯学習施設の一室を利用できることになったが、大部屋での生活は苦労が多かった。県に何度も掛け合い、2次避難施設を探した。ようやく見つかったのが高崎市の国立重度知的障害者総合施設だった。

同じ福祉の道を進む長男の潤さん(31)=仙台市=の結婚は、長引く避難生活の中で明るい話題だった。「福島に帰る方がよっぽどうれしいけどね」。照れくさそうな寺島さんの言葉に福島への思いがにじむ。

福島に戻る日が近づいても不安はある。一番は職員不足だ。広く呼び掛けても思うように集まらない。

「一緒に戻って働こう」と内定を出したが、通える場所で住まいを探しても見つからないと辞退した人もいた。福島に戻らないと決めた職員もいる。

「利用者のことを考えれば職員が10人は足らない」。もどかしさが募る。

「広野に戻っても利用者の日常生活は元に戻っていない。やることはまだまだある」。福祉の世界に入って40年。「利用者の幸せが第一」が信念だ。道は長く険しい。新しい施設での再出発は、再生に向けた一つの通過点だと考えている。
(田柳暁)

●私の復興度・・・30%
福島は、岩手や宮城とは質の異なる被害を受けた。津波被害だけなら同じ古里の高台などで再び暮らすこともできるが、放射能汚染の影響が強く残る地域ではそこにある自宅にさえ帰れない。私たちは新しい施設ができ広野町に戻るけれど、一つのハードルを乗り越えたにすぎない。利用者がかつての生活を取り戻してこそ復興を遂げたことになるのだと思う。だから30%。

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