2015/05/10

原発事故50カ月:新潟に希望の食堂 南相馬出身の元農家


毎日新聞 2015年05月10日 
http://mainichi.jp/select/news/20150511k0000m040100000c.html


新潟県胎内市の市街地に4月、地元産野菜が自慢のレストラン「ファーマーズテーブルあい」がオープンした。経営するのは福島県南相馬市から避難中の泉田昭さん(67)。新潟の地で「新しい挑戦を」と事業を展開し、従業員はできる限り福島からの避難者を雇用する。開店から1カ月。「元気よく笑っていこう」を合言葉に明るく店を切り盛りする従業員らの姿に「店が地元に根付いてくれたらうれしい」と目を細めた。

泉田さんは南相馬市小高区に約130年続く農家で、両親や長女家族ら9人で暮らしていた。約6.5ヘクタールの農地で米や大根などの野菜を育て、かつては養蚕も手がけた。

東日本大震災の翌日、原発事故で避難指示が出たことを知り、一家で毛布1枚ずつを持って近くの体育館へ避難した。「すぐ戻れるだろう」と財布や時計も持たずに出たが、避難所などを転々とし、2011年4月、胎内市に落ち着いた。2カ月後、泉田さんは初めて南相馬に戻ってみた。「豚、べこ(牛)が野生化して、畑は荒らされていた。家は雨漏りしていた」。除染が容易でないことも分かり、地元での農業をあきらめた。

2年後、「震災前からやってみたかった」という桑の葉を使ったお茶やお菓子を製造、販売する会社を胎内市で設立した。レストラン経営も同社の事業の一つ。40席の店内は木のぬくもりが感じられる内装で、メニューに桑の葉を練り込んだパスタやパンが並ぶ。

泉田さんが会社を設立する際にこだわったのは自主避難者を雇うことだった。「私のような強制避難者に比べ、自主避難者は賠償額も少なく、前を向いている人が少ない。少しでも避難者同士で助け合いたい」。避難者を優先してハローワークに求人を出し、一時は7人中5人が避難者だった。今も工場やレストランで働く8人のうち3人が避難者だ。

新潟県新発田市の大内和美さん(42)もその一人。福島県いわき市で暮らしていたが、原発事故後、当時3歳の次男が毎月のように熱を出し、不安になって避難を決めた。だが、避難者交流の場で「いつでも帰れる人」などと言われ、強制避難者との溝を感じた。そんな時、泉田さんに出会った。「社長は何でも前向きに考える人。ここで働いていると、つらいことも忘れられる」と話す。

「ふるさと福島」。これが泉田さんの会社の名前だ。「古里の土地を失っても、勇気は失いたくない。今後、古里がどうなっていくか不安はあるが、逆転の発想で名前をつけてみたんだよ」。福島にも事業を広げるのが当面の目標だ。


桑の葉を練り込んだパスタや、地元産の野菜をふんだんに使った
ランチを囲む泉田昭さん(右)とレストランのスタッフら







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