片岡 輝美(かたおか てるみ)
福島県会津若松市の教会を拠点に、東京電力福島第一 原発事故後、「放射能から子どものいのちを守る会・ 会津」「放射能情報センター」の市民団体の代表として 活動している。夫は牧師。 |
「会津は安全」といわれることが多いのですが、事故前に比べたら格段に高い放射線の中で暮らさねばならいのは事実です。「ほかの地域と比べてどうか」ではなく、「事故前と比べてどうか」という物差しで事故の影響に向き合いたいのです。
震災後、2011年5月には「放射能から子どものいのちを守る会・会津」を立ち上げました。以来、給食の食材や屋外活動などについて、会員の要望を集約して行政や教育委員会に出すなどの活動を行っています。
そして2011年の7月、国や専門家の発表する情報をただ鵜呑みにするのではなく、市民の立場から主体的に情報を入手し、自分たちで安全かどうかを判断しようと、放射線量の測定などを行う「情報センター」を立ち上げました。
書籍や資料のコーナー |
2つの団体の設立の背景には、2005年2月から毎月学習会を続けてきた「九条の会」の存在がありました。憲法について学ぶこの会でつちかった人のネットワークがあったことと、教会という、人が集まれる場所があったこと、そのおかげで事故後、早い段階から活動を始めることができました。
安全かどうかは私が決める
私たちの活動の1つの軸は、数値の収集と情報の発信です。センターでは、ガイガーカウンターやガンマ線測定器などを入手し、生活圏内の放射線量の測定や、食品の測定などを行っています。
私たちの基本姿勢は、「安全かどうかは私が決める」ということです。私たちは、検出された数値が危険かどうかの判断はしません。その数値をどう捉えるかは、一人ひとりが判断することだと思っています。ですから、自身で判断するのに役立つ情報を、できるだけ多く提供するように心がけています。
私たちの活動の1つの軸は、数値の収集と情報の発信です。センターでは、ガイガーカウンターやガンマ線測定器などを入手し、生活圏内の放射線量の測定や、食品の測定などを行っています。
私たちの基本姿勢は、「安全かどうかは私が決める」ということです。私たちは、検出された数値が危険かどうかの判断はしません。その数値をどう捉えるかは、一人ひとりが判断することだと思っています。ですから、自身で判断するのに役立つ情報を、できるだけ多く提供するように心がけています。
測定室 |
また、ネット上への測定値の公開もしていません。たまたまその日測ったトマトやピーマンの数値が高かったからといって、市内の違う畑で採れた野菜でも同じ数値が出るとは限りません。会津は農村地域ですから、数値だけが独り歩きしないよう、データの出し方には配慮が必要です。
測定をしていてよかったなと思うのは、安全が確認できた時ですね。「郡山市に暮らす娘から、放射能が心配だから、お米を送ってこないでと言われた」と、自分の家の田んぼで作ったお米の測定に来られた方がいました。ドキドキしながら測定してみると、結果は非検出(検出限界値は1〜2ベクレル/㎏)。「これで娘にお米を送れる。きちんとわかってよかったです」と、とても喜んでもらえました。
一方で、測定結果から厳しい現実を突きつけられることもあります。お母さんたちが持って来た子どもの靴からは㎏当たり100ベクレル超え、体操着からは数十ベクレルのセシウムが検出されました。そういう時は「私の判断が甘かった。もっと、早く測定して事実を掴めばよかった」と、自分を責めるお母さん達の隣で、私たちスタッフも肩を落とすしかありません。でも、測定して数値を知ったことにより、お母さんたちは、靴や体操着をこまめに洗ったり、室内に放射性物質を持ち込まないようにしたり、保養には新しい靴を持参するなど、被ばくのリスクを下げるために、具体的な対策を自ら考えていくようになります。
大切なのは、結果に一喜一憂することではなく、測定データから明らかになったことを、無用な被ばくを避けるために、普段の暮しの中に生かすことです。事実と向き合うのは、時にとても勇気のいることですが、原発事故後を生き抜くための、大切な第一歩です。
思いに寄り添う場として
センターの活動のもう一つの柱は、人の思いに寄り添うことです。 原発事故後、被ばくを不安に思うのは過剰反応だという空気が蔓延しています。不安を感じる人たちが、「私だけがおかしいの?」と思い悩まなくてよいように、誰でも参加できて、自由に気持ちを開放できる「しゃべり場」を、毎月開催しています。
山崎先生の健康相談会の様子 |
何よりも、「これは心配いらないよ」「こういう症状は注意して経過を見た方がいいね」と、気にすべきこととそうでないことを整理した上で、よくわからない症状については「何だろう、心配だね」と、一緒に悩んでくださる。その姿勢が、お母さんたちの大きな支えとなっているのです。
また最近、私たちが気にかけているのが、会津を離れたお母さんたちへのフォローです。
会津で避難生活を送っていたけれど、事故後6年が経ち、両親の介護や子どもの進学などの事情で、帰還せざるをえなくなった方がいる一方で、事故後、数年間は被ばくを避ける努力をしながら会津で暮らしたけれど、「もっと線量の低いところで暮らしたい」と、県外避難へ踏み切った方もいます。
帰還すれば、放射線への不安を抱えていても、それを口に出すのは難しい。また、県外へ避難している場合は、自分がなぜ避難したかを語る場がなくて孤独感を募らせるということもあります。
そもそも、どこにいたとしても、最も線量が高かった事故直後に自分の子どもはどれだけ初期被ばくをしたのか、その影響が今後あらわれるのではないか、という不安は解消されません。にもかかわらず、原発事故から時間がたつにつれ、被ばくのことなんて気にしていないように装わなければ、日常生活を送りづらいという現実があります。
ミーティングルーム |
お母さんたちは、涙を流しながらお互いの思いを打ち明けるのですが、今年は去年とは違って、前向きさというか、たくましさを感じる場面もありました。「毎日毎日、次々と原発を巡って大変なことがわかり、3・11前の暮らしを返してよ! って、何度も思う。だけど、生活は続いていく。だから、今できる最善のことをやっていこうね」と。決して状況は楽にはなっていないけれど、そうやって励ましあう表情に、少しだけ、光が見えた気がしたのです。
「線量が低いから」と 痛み比べをしない
被ばくによる健康リスクを下げるためには、保養が効果的であることも、チェルノブイリの経験から明らかになっています。保養とは、一定期間、汚染のない地域で過ごすことにより、体内の放射性物質を排出させ、免疫力を高める取り組みです。私たちも、夏休みに、子どもたちを各地へ保養に連れて行ったり、保養に出かける方に交通費の補助を出したり、積極的に保養を勧めています。
ある時、子どもを保養に出すのをためらうお母さんがいました。理由を尋ねると、「会津には、多くの避難者の方たちが生活していて、本当に大変な思いをしてきた。だから保養は、避難者が優先だと思うんです。家族が離れ離れになることもなく、ずっと会津に暮らしている私の子どもは、遠慮した方がいいのかなって」というのです。
「福島県内では比較的線量が低く、安全」とされる会津で子育てをする母たちの、複雑な胸の内です。 でも、忘れてはならないのは、ほかの地域と比べて汚染度が低いとはいえ、会津にも、事故前よりずっと高い放射線があるという事実です。これは、加害者が起こした事故によってできてしまった事態なのですから、被害者同士が痛み比べをする必要はないはずです。
日々の暮しの中で、自分や自分の子どもに被ばくをさせたくないという、その当たり前の思いを行動にうつすことを、誰も我慢しなくていいのです。そんなことをしていたら、やがてみんなが口をつぐまなくてはいけなくなる。それでは、子どもたちの命や健康を守ることはできません。
無用な被ばくを避ける権利は、誰もが当たり前に持っているのです。このことは会津に限らず、県境を越えて広がった低線量汚染地域に暮らす方々にも、心に留めておいてほしいと思います。
徹底的な絶望から 始まるものがある
私たちの活動の根底には、もはや、国に自分たちの生命を預けない、という決意があります。 国への不信感を決定づけたのは、事故後早い段階から、福島県内各地で開かれた、放射線の専門家による講演会です。そこでは、「放射能は笑っている人のところにはきません」「年間100ミリシーベルトまでの被ばくなら、影響はほとんどありません」など、被ばくの影響を過小評価する話ばかりがされました。衝撃的だったのは、「今は国家の緊急時だから、国民は国家に従うべきだ」という発言です。科学者が語る精神論に、背筋が凍る思いがしました。
原発震災から約1年後、「国や県は味方だと思っていた。今は緊急時だから、国が助けてくれると思っていたのに、現実は違った」と話すお母さんがたくさんいました。緊急時に、国は国民を守らない。
それは、旧満州からの引揚者である私の母がよく語っていたことです。戦争体験者である母の言葉と、原発事故を経験した私たちの言葉が重なることが、とてもショックでした。
結果的に、専門家の口から被ばくの影響を過小評価する発言を聞いたことで、多くの人が被ばくへの警戒を解いてしまった。国や県も、専門家の発言を引いては「大丈夫」と繰り返すばかり。少しでも注意を促してくれていたら、後になって「あの時、子どもを給水車の列に並ばせてしまった」と、お母さんたちが自分を責めることもなかったのに。異様なスピードで浸透していく放射線安全論には強烈な違和感がありました。そして、このまま国の言うことを信じていたら、子どもの命と健康を守ることはできないと思いました。
それでもまだ、事故直後には、一つひとつ声を上げていけば、いずれ事態は好転するかもしれないと、心のどこかでは期待していました。でも状況は、6年が経った今でもほとんど変わりません。それどころか、原発再稼働が始まっています。
復興の掛け声が大きくなる中、県内には、「事故はもう過去のことだ」と捉える人や、気にしたところで何も変わらないからと、事故の影響に耳をふさいでしまっている人もいます。そうしたくなる気持ちは、本当によくわかります。わかるけれども、取り返しのつかない事態を作ってしまった大人の責任として、現実から目をそらすわけにはいかないと思うのです。目の前に厳しい現実があるのなら真正面から向き合い、徹底的に絶望する。そこからしか、始められないものがあるはずです。
私は、事故直後の2週間ほど、三重の親戚宅に避難しました。2011年の3月11日は、息子の卒業式で、私はPTA会長として壇上に立ち、「これからの人生、嬉しい時も悲しい時もある。けれども、どんな時でも自分の生命と心を大切に、そして、まわりの人びとの生命と心を大切にして生きていこう」と話をしたのに、その数日後、原発の爆発を見てパニックになり、逃げてしまったのです。
教会を会場に講演会 |
お腹の底からわきあがるような恐怖を感じて避難したのですが、避難中は、私は弱くてずるい人間だから逃げ出したと思っていました。しかし、自宅に戻り情報を収集し、同じく不安を持つ人びとと繋がっていくうちに、避難者は弱さから避難したのではないことに気づきました。原発事故に遭遇したら、生命を守る唯一の選択が避難だと知ったのです。
事故直後、原発の危険性を熟知していた友人は、知り合いに警告を発し、いち早く避難しました。そのことは、私の避難意識を高め、避難を後押ししてくれたのです。そして、私の逃げる姿を見て避難に踏み切った友人や知人もいました。とはいえ、家族や友人を置いて避難することは本当に辛い。一時でもその思いを経験したことで、決して充分ではありませんが、会津に避難してきたお母さん達の気持ちに、少しでも思いを寄せることができたのかもしれません。
命と健康の危機にあって必要なのは、国や行政の言うことを鵜吞みにせず、自分の頭で考えて行動する力、そして信頼し、支えあえる仲間の存在です。そのことを、私は原発事故から学びました。
原発事故から7年目。誰もが疲れを覚えています。でも、私たち大人は楽観論や無責任なあきらめに逃げるわけにはいかないと思うのです。厳しい現実に向き合う仲間と共に、どの生命も大切にされる社会に近づく希望を見出していきたい。そのための活動をこれからも続けていこうと思います。
若松栄町教会。現在の建物は1911年に建設された |
インタビュー・まとめ 片山 幸子(編集者)
※「こどけん」は、一般社団法人子どもたちの健康と未来を守るプロジェクトが発行する冊子です。こちらから取り寄せが可能です。
↓
http://kodomo-kenkotomirai.blogspot.jp/
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