2015/09/11

<母乳ストーリー> 震災から4年半 福島の母親

2015年9月11日 中日新聞http://www.chunichi.co.jp/article/living/life/CK2015091102000002.html

東日本大震災で被災した内藤めぐみさん(右)と福島真弓さん。
2人の子どもたちは4歳になった=福島県須賀川市で
体重はたった一六〇〇グラムの未熟児。新生児集中治療室(NICU)の保育器に入った次男を抱き締めることはできなかった。

八月に福島県須賀川市の国立病院機構福島病院で出産した内藤めぐみさん(36)は、約一カ月間、母乳を搾って病院に届け続けた。あふれる涙をぬぐってつぶやいた。「母乳をあげると不安が和らぐ。子どものために…頑張ろうって」。あの時もそうだった。

四年半前の二〇一一年三月十一日の東日本大震災。当時三カ月の長男を抱えて被災した。

「守らなきゃ」。揺れを感じて長男を抱き、階段を踏み外しそうになりながら二階から駐車場に逃げた。めりめりと道路のアスファルトにひびが入り、隣家の石塀が崩れ落ちてきた。震度6強の揺れでアパートは半壊。ひしゃげたドアが開かず、外に閉め出された。粉雪が舞っていた。

夫の迎えを車の中で待ち、夜にやっと実家に避難。約二週間は水が出ず、ポリタンクを持って給水場に並んだ。ガソリンスタンドで働く夫は朝六時に家を出て、夜十時まで帰ってこなかった。一台十リットルまでと決められたガソリンを求めて、数キロの行列ができていた。幸い、母乳は出た。粉ミルクは母乳が出ない友達に譲った。「この子はおっぱいを飲んでいれば大丈夫と思うと落ち着いた」

震災後の大混乱の中で、出産した人もいた。福島真弓さん(39)は、震災四日後の十五日に、同じ福島病院で長男を産んだ。前日には福島第一原発の3号機が爆発。病院内は、同県いわき市などからも避難した妊婦であふれていた。

「もしものときには自力で逃げられるように」。帝王切開による傷口の痛みを我慢して、出産翌日には歩き始めた。余震もあり、長男の体を覆うように抱いた。水が出ず、シャワーは退院前日まで入れなかった。

退院して、同県石川町の実家に戻ると、母乳が足りないのではと不安になった。だが、粉ミルクは手に入らなかった。病院に相談すると「母乳は出ているから大丈夫」と助産師に励まされた。

原発から町内の自宅までは約六十キロ。危険を感じたがガソリンはなくて、逃げようにもどこにも行けなかった。放射性物質による被ばくが心配で窓を閉め切った。散歩で初めて長男を外に出したのは、半年後だった。

福島病院の副看護師長鈴木千保さん(56)は、震災時を振り返ると涙を止められない。「水や粉ミルクが手に入らない中で、出産直後のお母さんたちは退院までに母乳を出そうと必死だった」。退院時に母親が母乳だけを与える割合は、震災前の同年一月が46・9%。震災後の三月は80・4%に跳ね上がった。

一方、氏家二郎院長(64)は、放射性物質の影響を気にして、母乳を与えない母親が増えるのではないかと懸念していた。しかし結果は逆。氏家院長が代表を務める「ふくしま母乳の会」は一二年十月、県内約千八百人の母親を調査。四カ月健診時に母乳だけを与えていた割合は震災前の〇七年が32%だったのに対し、震災後の一二年は40%に増えていた。

「放射性物質は気になったけど、悪い情報は見ないようにしていた。自分の選択を信じていた」。震災時に母乳をあげていた内藤さんは、振り返る。

小さく生まれた内藤さんの次男は、二五〇〇グラムまで体重が増え、今月五日に退院した。次男がおっぱいを吸う力は、日に日に強くなっている。きょうで震災から四年半。内藤さんは新しい命を抱き締めて、節目の日を迎える。
(細川暁子)

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