2016/06/23

<参院選1票事始め>傍観者じゃ変わらぬ/福島

2016年06月23日 河北新報
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201606/20160623_61007.html

「18歳選挙権」が施行され、ティーンエージャーが初めて参院選で1票を投じる。閉塞(へいそく)感漂う政治に新しい風を吹き込むことができるのか。梅雨空の東北で新有権者の素顔に迫る。

◎福島の今 五七五で訴え
<あの頃までは>
<無被曝(ひばく)の水で被曝の墓洗う>

17音で古里が直面する現状を浮かび上がらせた。

福島市の福島西高3年の高橋洋平さん(18)は昨年8月、家族5人で福島県飯舘村に出掛けた。

東京電力福島第1原発事故の影響で全村避難を余儀なくされた飯舘村で生まれた。避難先の福島市から向かった先は、祖父らが眠る墓地だった。

「先祖の墓だけは澄んだ水で洗いたい」。コンビニで買った2リットル入りのペットボトルの水をおけに移し、ひしゃくですくった。墓石の上から透明な水をそっとかけた。仏花にもやった。

汗ばむ夏空の下、マスクを外し、鼻から思い切り空気を吸い込んだ。「やっぱりおいしい」。思わず漏らした言葉の余韻は、祖母フヨノさん(88)の「あの頃まではね」という一言で遮られた。

俳句で詠んだ墓参の様子を高橋さんに再現してもらった。
今も家族全員が避難生活を余儀なくされている=18日、福島県飯舘村飯樋

<放射線量200倍>
飯舘村は阿武隈高地の北部に位置し、農業と畜産が盛んな村として知られていた。面積の4分の3は森林。新鮮な空気、ほぼ完全自給の学校給食、イワナが泳ぐ川が自慢だった。

「あの日」を境に、自然に根差した村のなりわいは土台を失った。原発事故当時は飯樋小の6年。放射性セシウムなどの存在すら知らず、原発から約40キロ離れた自宅に家族ととどまった。

事故直後、近所の放射線量は毎時44.7マイクロシーベルトを記録した。国が後に除染目標に掲げる毎時0.23マイクロシーベルトの約200倍。全村避難の方針が伝えられたのは原発事故から1か月も後だった。

セシウム134、セシウム137。事故直後、プルームと呼ばれる放射性物質を大量に含んだ雲が上空を通過し、村に大量の放射性物質が降り注いだ、と後で聞かされた。

18歳以下の全県民を対象とする甲状腺検査では、友達よりも累積被ばく線量が高かった。「直後に雪を食べたせいかも…」。無口になり、心を閉ざした。

<最高賞に選出>
救ってくれたのは、世界で最も短い詩といわれる俳句だった。冒頭の句は神奈川大学全国高校生俳句大賞の最優秀賞に選ばれた。

福島西高文芸部顧問の中村晋さん(49)が与えた三つのテーマから「福島」を選んだ。「見たまま、感じたままに」。恩師のアドバイスを反すうしながら、自室で静かに記憶をたどり言葉を紡いだ。

<被曝者として黙〓(もくとう)す原爆忌>
<フクシマに柿干す祖母をまた黙認>

内面と向き合い、時代をとらえ、社会をえぐる句が生まれた。

原発事故、戦争、平和-。「傍観者じゃ何も変わらない。自分の意思を表明しないと」。作句のテーマは常に実社会と絡み合う。

5月22日、18回目の誕生日を迎えた。初めての1票を投じる覚悟はできている。
(報道部・吉江圭介)
(注)〓示へんに寿の旧字体

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