2016/06/20

(核リポート)被曝した人が語る 不気味な「鉄の味」

2016年6月20日 朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/ASJ6K5QFZJ6KULBJ00Y.html

◆チェルノブイリ特別編:4
1986年4月に起きた旧ソ連・チェルノブイリ原発事故では、高放射線の下で作業した人たちの多くが、ある共通の感覚を経験した。「口の中で鉄の味がした」というものだ。

ベラルーシ南部のゴメリ近くにサビチという小さな村がある。今年3月末の段階でも、ブルドーザーが家を壊し、森の木を倒して地面に埋めていた。汚染地に人が住みつくのを防ぐためだ。30年を過ぎても事故処理の作業が続く村だ。

事故直後の86年5月、ベラルーシのテレビ局の記者だったガリーナ・ズロベンコさん(72)はこの村を訪れた。

事故2週間後の5月10日、テレビ局の数人が上司からひそかに呼び出された。上司は「これは上からの圧力ではない、『お願い』だ」といった。「お願い」とは原発近くの村で始まっている農民の強制疎開を撮影、記録することだった。

翌11日、バスにフィルムを満載して首都ミンスクを出発した。汚染地に向かう途中、20代の若い運転手は、「あなた方は40代で十分人生を見てきたからいいが、私はまだ若いし、結婚もしたい」と言ってバスを降りてしまった。運転手が代わった。

サビチ村など原発に近い地域は大混乱だった。即時疎開を命じられた農民は泣きながら荷づくりをし、家の窓に板を打ち付け、家畜を追い立てていた。

「放射能除去に効く」といわれていたウォッカを飲んで酔っ払っている人も多かった。殺されると知った牛や豚の叫びが響きわたる異常な状況の中、ガリーナさんらは懸命にフィルムを回した。

ガリーナさんはこの経験を語る途中で「鉄の味」の話を切り出した。「5月12日の朝から口の中で金属をなめるような味がした」。他のスタッフも同じだった。「チョコレートを食べるとき銀紙を一緒に口に入れてしまうときがあるでしょう? あの嫌な味です」

チェルノブイリ事故で被曝(ひばく)した人の話には、味覚がおかしくなったという話がしばしば出てくる。具体的に聞くと、「鉄(金属)をなめた味」という表現が多い。「甘いスイカを食べても味がおかしい、甘くない」とも聞いた。
今年3月、ベラルーシのミンスクで、5人のリクビダートル(事故処理作業者)にインタビューした。

話を聞いた5人全員が、かつて鉄の味を経験していた。

そのひとり、タマーラ・コレスニクさん(68)によると、「鉄の味だけでなく、口が渇く、目が乾くというのが一般的な症状だった」。不気味なので、同僚同士でも症状の話はあまりしなかったという。

看護師だったタマーラさんは事故直後、被災地の村で感染症予防などの任務についた。「あるときその場所の放射線が非常に高いと知り、逃げ出したくなったが、できなかった」。

タマーラさんは事故2年後に40歳でぜんそくになり、その後、関節が悪化。事故4年後の90年から働けなくなった。いま手足の関節が悪く、痛み止めなしでは歩けない。「私は若く健康だった。もっともっと働きたかった」と涙ぐんだ。

チェルノブイリ事故直後、炉心で火災が起き、消火作業にヘリコプターが使われた。

事故当時24歳だった乗員、イーゴリ・ピシメンスキーさん(ウクライナ)に話を聞いた。2006年のことだ。

「高さ200メートルの原発の煙突を目安にホバリングし、落下傘で緊急につくった袋から砂などを落とした。1回につき3トン。だが、狙うのは難しかった。放射線は高く針が振り切れていた。1回目の飛行から体に何かの異常が起きていると感じた。金属の味がした」。4月27日から5日間で29回飛んだ。

その後、全身の倦怠(けんたい)感など体調が悪化し、97年に3級の身体障害者になった。

「味覚の変調」の原因は放射線だ。放射線は主に生まれ変わっている細胞の遺伝子を傷つける。がんの治療に放射線を使うのは、がんは細胞がどんどん生まれる病気だからだ。

口腔(こうくう)や咽頭(いんとう)のがんの治療に放射線を使う場合、重要な部分にカバーをつけても、粘膜などを傷つけたり、唾液(だえき)腺が影響を受けたりして唾液が出にくくなる、あるいは味覚が変わることがある。これと同様の症状が出ていたといえる。

チェルノブイリ事故後の作業では線量計が不足し、正しい被曝(ひばく)量が分からない場合が多いが、しばしば人間が感じるほどの高線量の中で仕事をしていたという証拠でもある。

元テレビ記者のガリーナ・ズロベンコさんにはもう一つの記憶がある。高放射線下にいたとき、住民の顔に白い線があったというのだ。

「眉と眉を結ぶ横の線、額の真ん中から鼻筋を通る縦の線。ちょうど十字架のようだった。女性に多かったように思う」。あれは何だったのか。放射線に関係あるのかないのかも含め、その後、だれに聞いても分からなかったという。

ガリーナさんらが混乱の中で撮影したフィルムは、旧ソ連国家保安委員会(KGB)によって「放送中止」になった。フィルムは押収され、行方不明になった。

しかしその5年後、フィルムは見つかり、事故20年後の06年にはテレビ番組となって日の目を見たという。(竹内敬二)




ベラルーシのリクビダートルでつくる
「チェルノブイリ傷病者の会」メンバー。
かつての事故処理作業で、全員が「鉄の味」を経験した
=2016年3月、ミンスク、杉本康弘撮影



◇ たけうち・けいじ 朝日新聞で科学部記者、ロンドン特派員、論説委員、編集委員などを務め、環境・原子力・自然エネルギー政策、電力制度などを担当してきた。温暖化の国際交渉、チェルノブイリ原発事故、3・11などを継続的に取材。著書は、電力業界が日本社会を支配するような社会産業構造がなぜ生まれたかを描いた『電力の社会史 何が東京電力を生んだのか』(朝日選書、2013年)。

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