http://www.asahi.com/articles/ASJ667FF6J66PTIL030.html
子どもを被曝(ひばく)から守りたいと母子避難したお母さんの悲鳴を聞いてほしい――。5年前の福島第一原発事故の避難者に対する住宅の無償提供が2017年春に打ち切られる。避難指示区域の外から県外に避難したお母さんたちの話を聞いてきたジャーナリストの吉田千亜さんは、その切迫した状況を世に伝えたいと、「ルポ 母子避難―消されゆく原発事故被害者」(岩波新書)をこのほど出版した。執筆にかけた思いを聞いた。
吉田千亜さん |
■ルポ執筆、吉田千亜さんに聞く
――原発事故の避難者と関わるようになった経緯をまずお聞かせください。
「私は埼玉県に住んでいるのですが、私自身も小さな子を抱え、事故の時は怖くて、遠くに避難するべきかどうか迷いました。結局、避難はしませんでしたが、もし自分が避難したら、きっと同じ境遇の方に会いたいはずで、その出会いの場をつくることなら私でもできるだろう、と。で、市役所に掛け合って公民館の部屋を押さえ、避難者の交流会を始めたのが12年4月でした。最初、来られたのはたった2人でしたが、だんだんと人数が増えて、多い時は、30~40人になりました」
「ただ、後でお話ししますが、政府の避難指示を受けた区域からの避難者と、避難指示が出ていない区域からの避難者、いわゆる自主避難者の抱える問題の違いがだんだん分かってきました。そこで14年に入って、自主避難者だけの交流会も始めました。参加されたお母さん方は、これまでの経緯をわーと一生懸命に話されるんですね。それこそ手や唇を震わせながらです。ずっと一人で、言いたいことも言えない自主避難者の思いを私もそこで知るようになりました」
――自主避難したお母さんたちの苦しい実態が、本ではいくつも描かれていますが、一つの事例として、ある避難所で、避難指示の区域から来た初老の男性に、自主避難の母親が「帰る場所のあるやつは、帰れ」となじられる場面がありますね。
「その男性も被害者ですから、そのお母さんは反論できないんです。自分は避難を認めてもらえないのかと、泣きだしてしまった、と。事故前の(一般人の)被曝限度は年間1ミリシーベルトでした。しかし、避難指示は年間20ミリシーベルという値を目安に出されました。なぜ、いきなり20倍で大丈夫というのか。お母さん方が心配するのは当然です。でも、それを、胸を張って言えない状況もあったのです」
――登場するお母さん方の多くが仮名です。
「それがこの問題の所在を示しています。例えば、母子避難をさせているある夫は、事故後のこの5年間、地元の仲間に、妻と子どもが避難していることを一切言っていないと。母子避難は、復興と『逆のこと』をやっている、とみられてしまうというんです。復興と、被曝を避けることが、対立概念になってしまっています。いま、被曝を口にすれば、かえって『神経質すぎる』と言われるような状況があって、多くの方を仮名にせざるをえませんでした」
――その地の放射線量を事故前の何倍と表現されていますね。これは年間20ミリシーベルトが安全かどうかの基準になっていることへの抗議ですね。
「はい。お母さんたちの主張の合理性、正当性を現したかったんです。『自主避難』という言葉が世に広まっているので、この本でも便宜的に使っていますが、彼女たちは、決して『自主的』に避難したのではありません。子どもの被曝を少しでも避けたい、避難したい、と。繰り返しになりますが、当然の思いです。彼女たちを含め、少しでも被曝を避けたいと願う人たちは、何ひとつ悪いことはしていません」
■離婚に至るケースも
――本では、母子避難のリアルな現実が描かれています。例えば、離ればなれの生活が長くなり、浮気に走る夫の話も出てきます。
「母子避難させていると、職場で、奥さんに逃げられたんだろとか、なんでおまえの家の奥さんは帰ってこないんだ、というニュアンスで言われることもあるそうです。そうしているうちに、日々のストレスの矛先が妻に向かってしまう人もいる。そうした形で母子避難されている方で、いま、離婚問題を抱えている方はたくさん、いらっしゃいます。精神的にもとても辛いはずです」
――母子だけということが周囲に分かると怖いということで、男性のような服を着るお母さんの話にも身につまされました。
「そのお母さんが、交流会にはじめてきた格好を覚えています。底の厚いブーツをはいて、黒っぽい服を着ていました。お話では、ご近所にあいさつするときも、子どもを片手で抱えて、力があるように見せ、低い声で話したと。そんなにおびえていたのは、近隣住民でお酒を飲んでけんかする人がいたからです。その避難先で最初に買ったモノが金属バットで、何かあったときのために、枕元においていたと言います。福島から遠く離れ、突然の母子だけの生活です、どんなに心細かったことか」
――何より、母子避難の経済的な苦境が詳しく描かれています。
「自主避難者への賠償はほんとうにわずかです。母子3人で、約150万円といったところでしょうか。引っ越し費用や、仕事で地元に残った夫との二重生活を送るうち、そのお金は消えてなくなってしまいます。災害救助法に基づく住宅の無償提供があったからこそ、ぎりぎり生活できている状態です。でも、この災害救助法に基づく住宅提供は、一度転居すると、「避難の終了」と見なされて、制度の枠組みから外れ、家賃を払わなくてはならなくなります。だから、隣人が酒乱で警察沙汰になっても、引っ越さずに我慢していたという母親もいます」
――なのに、福島県は17年3月でその住宅支援を打ち切ると。
「それこそ、ぎりぎりの生活をしながら母子避難しているお母さんたちにとって、『トドメを刺される』といった感覚だと思います。お母さんたちの話を聞いてきた私も、15年5月、それを伝える朝日新聞の記事に、とうとうきてしまった、とぼうぜんとしました。家賃を払いながらの二重生活で困窮することが間違いなく予想できる。自然災害であれば、年数を重ねるたびに復興していく感覚があると思うのですが、原発事故は逆です。どんどん疲弊していきます」
■「私たちは棄民だ」
――本の「おわりに」で、執筆の動機として、この打ち切り問題に「一石を投じたい」と書いていますね。
「はい。私のこれまでの取材で、『私たちは棄民』だという言葉を何度聞いたことか。彼女たちに、避難したのは自己責任だ、これで住宅支援はおしまい、あとは好きなように、と。この国の事故後の対応は本当にそれでいいのでしょうか。お母さんの中には、『一人ぐらい自殺でもすれば、本気で私たちのことを考えてくれるようになるのかな』とおっしゃる方さえいました。そんなことは絶対にあってはなりません」
「いま、期待しているのは、自主避難者を受け入れている自治体です。今、同じ地域に暮らす人々に、なんとか支援の手を差し伸べてほしいと思います。新潟県や埼玉県が独自の施策を打ち出すなど、理解のある自治体もあります。逆に懸念しているのは、避難者数が一番多く、かつ住宅事情も厳しい東京都です。都の動きは、今後、とくに注目すべきだと思っています」
――それにしても、よくここまでお母さんたちの思いや実情を取材できたと思います。
「私はただ隣にいて、一緒に頭を抱えて悩んでいるだけかもしれません。もっと何かできないかと思うのですが。ただ、母子で避難された方は、子どもの世話などで常に時間に追われ、避難者らの催しや国の説明会にもなかなか参加できません。つまり、住宅支援の打ち切りでも、一番困る人々が、自ら訴えることができないんです。その声を、実態を、行政や多くの人に知ってもらいたいとの思いから、この本を書きました」
――そもそも、正確な自主避難者の数も分かっていない。
「福島県からの自主避難者数については、福島県は把握しているはずですが、なぜか公表していません。それに茨城県や千葉県、栃木県などからの自主避難者もいるのですが、その数も正確には把握されていません。以前、岡山県に避難している方々の交流会では、総務省所管の避難者の登録システムに登録したのは、任意ということもあって10人中1人だったと聞きました」
「いまの日本は、『希望』ある言葉で、被害の実態を隠しているように思えてなりません。絆、復興、オリンピック。明るい未来をと思うのは分かりますが、どこに住んでいても、子どもを守りたいと願う親の気持ちに、国はきちんと向き合ってほしいと思います。何十年後かに、原発事故の避難者は、避難指示が出た区域の記録だけが残って、自主避難者、母子避難の存在はなくなっているのでは、と感じています。だから、残さねば、と思って書いた本でもあるんです。消されてたまるか、です」
◇
――登場するお母さん方の多くが仮名です。
「それがこの問題の所在を示しています。例えば、母子避難をさせているある夫は、事故後のこの5年間、地元の仲間に、妻と子どもが避難していることを一切言っていないと。母子避難は、復興と『逆のこと』をやっている、とみられてしまうというんです。復興と、被曝を避けることが、対立概念になってしまっています。いま、被曝を口にすれば、かえって『神経質すぎる』と言われるような状況があって、多くの方を仮名にせざるをえませんでした」
――その地の放射線量を事故前の何倍と表現されていますね。これは年間20ミリシーベルトが安全かどうかの基準になっていることへの抗議ですね。
「はい。お母さんたちの主張の合理性、正当性を現したかったんです。『自主避難』という言葉が世に広まっているので、この本でも便宜的に使っていますが、彼女たちは、決して『自主的』に避難したのではありません。子どもの被曝を少しでも避けたい、避難したい、と。繰り返しになりますが、当然の思いです。彼女たちを含め、少しでも被曝を避けたいと願う人たちは、何ひとつ悪いことはしていません」
■離婚に至るケースも
――本では、母子避難のリアルな現実が描かれています。例えば、離ればなれの生活が長くなり、浮気に走る夫の話も出てきます。
「母子避難させていると、職場で、奥さんに逃げられたんだろとか、なんでおまえの家の奥さんは帰ってこないんだ、というニュアンスで言われることもあるそうです。そうしているうちに、日々のストレスの矛先が妻に向かってしまう人もいる。そうした形で母子避難されている方で、いま、離婚問題を抱えている方はたくさん、いらっしゃいます。精神的にもとても辛いはずです」
――母子だけということが周囲に分かると怖いということで、男性のような服を着るお母さんの話にも身につまされました。
「そのお母さんが、交流会にはじめてきた格好を覚えています。底の厚いブーツをはいて、黒っぽい服を着ていました。お話では、ご近所にあいさつするときも、子どもを片手で抱えて、力があるように見せ、低い声で話したと。そんなにおびえていたのは、近隣住民でお酒を飲んでけんかする人がいたからです。その避難先で最初に買ったモノが金属バットで、何かあったときのために、枕元においていたと言います。福島から遠く離れ、突然の母子だけの生活です、どんなに心細かったことか」
――何より、母子避難の経済的な苦境が詳しく描かれています。
「自主避難者への賠償はほんとうにわずかです。母子3人で、約150万円といったところでしょうか。引っ越し費用や、仕事で地元に残った夫との二重生活を送るうち、そのお金は消えてなくなってしまいます。災害救助法に基づく住宅の無償提供があったからこそ、ぎりぎり生活できている状態です。でも、この災害救助法に基づく住宅提供は、一度転居すると、「避難の終了」と見なされて、制度の枠組みから外れ、家賃を払わなくてはならなくなります。だから、隣人が酒乱で警察沙汰になっても、引っ越さずに我慢していたという母親もいます」
――なのに、福島県は17年3月でその住宅支援を打ち切ると。
「それこそ、ぎりぎりの生活をしながら母子避難しているお母さんたちにとって、『トドメを刺される』といった感覚だと思います。お母さんたちの話を聞いてきた私も、15年5月、それを伝える朝日新聞の記事に、とうとうきてしまった、とぼうぜんとしました。家賃を払いながらの二重生活で困窮することが間違いなく予想できる。自然災害であれば、年数を重ねるたびに復興していく感覚があると思うのですが、原発事故は逆です。どんどん疲弊していきます」
■「私たちは棄民だ」
――本の「おわりに」で、執筆の動機として、この打ち切り問題に「一石を投じたい」と書いていますね。
「はい。私のこれまでの取材で、『私たちは棄民』だという言葉を何度聞いたことか。彼女たちに、避難したのは自己責任だ、これで住宅支援はおしまい、あとは好きなように、と。この国の事故後の対応は本当にそれでいいのでしょうか。お母さんの中には、『一人ぐらい自殺でもすれば、本気で私たちのことを考えてくれるようになるのかな』とおっしゃる方さえいました。そんなことは絶対にあってはなりません」
「いま、期待しているのは、自主避難者を受け入れている自治体です。今、同じ地域に暮らす人々に、なんとか支援の手を差し伸べてほしいと思います。新潟県や埼玉県が独自の施策を打ち出すなど、理解のある自治体もあります。逆に懸念しているのは、避難者数が一番多く、かつ住宅事情も厳しい東京都です。都の動きは、今後、とくに注目すべきだと思っています」
――それにしても、よくここまでお母さんたちの思いや実情を取材できたと思います。
「私はただ隣にいて、一緒に頭を抱えて悩んでいるだけかもしれません。もっと何かできないかと思うのですが。ただ、母子で避難された方は、子どもの世話などで常に時間に追われ、避難者らの催しや国の説明会にもなかなか参加できません。つまり、住宅支援の打ち切りでも、一番困る人々が、自ら訴えることができないんです。その声を、実態を、行政や多くの人に知ってもらいたいとの思いから、この本を書きました」
――そもそも、正確な自主避難者の数も分かっていない。
「福島県からの自主避難者数については、福島県は把握しているはずですが、なぜか公表していません。それに茨城県や千葉県、栃木県などからの自主避難者もいるのですが、その数も正確には把握されていません。以前、岡山県に避難している方々の交流会では、総務省所管の避難者の登録システムに登録したのは、任意ということもあって10人中1人だったと聞きました」
「いまの日本は、『希望』ある言葉で、被害の実態を隠しているように思えてなりません。絆、復興、オリンピック。明るい未来をと思うのは分かりますが、どこに住んでいても、子どもを守りたいと願う親の気持ちに、国はきちんと向き合ってほしいと思います。何十年後かに、原発事故の避難者は、避難指示が出た区域の記録だけが残って、自主避難者、母子避難の存在はなくなっているのでは、と感じています。だから、残さねば、と思って書いた本でもあるんです。消されてたまるか、です」
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吉田千亜(よしだ・ちあ)さん 1977年生まれ。フリーライター。二児の母。立教大学文学部卒業後、出版社勤務を経て、フリーライターに。放射能から子どもを守ろうと動く母親たちの動きを伝える季刊誌『ママレボ』や、埼玉県に避難している人たちへの情報誌『福玉便り』などの編集・執筆をしている。ジャーナリストや弁護士、研究者らで協力して被害の全貌(ぜんぼう)を描き出そうとした『原発避難白書』(人文書院)の編集・執筆にも携わった。
吉田千亜さん |
◆
こもり・あつし 1987年入社。名古屋や東京の経済部で、自動車や金融、経済産業省を担当。ロンドン特派員を経て、社内シンクタンク「アジアネットワーク」で地域のエネルギー協力策を研究。現在はエネルギー・環境分野を担当し、特に原発関連の執筆に力を入れる。単著に「資源争奪戦を超えて」「日本はなぜ脱原発できないのか」、共著に「エコ・ウオーズ~低炭素社会への挑戦」など。(小森敦司)
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