2016/06/28

平和をたずねて 核の傷痕 続・医師の診た記録/24 被ばく労働者の「傷痕」

2016年6月28日 毎日新聞
http://mainichi.jp/articles/20160628/ddn/012/040/049000c

原発はメルトダウン(炉心溶融)をきたす大事故に至ると、私たち人間の手に負いかねる。チェルノブイリや福島が例示している。問題はそれだけにとどまらず、稼働を続けるうえで労働者の被ばくが避けられない。

約40年にわたり「被ばく労働者」を診てきた阪南中央病院(大阪府松原市)副院長の村田三郎医師は、原発についてこう言い表した。「巨大な科学技術の陰に原始的な被ばく労働者がいる、それが原発なのです。残念ながら、作業員の健康被害は避けられません」

村田さんが原発作業員の放射線障害を初めて診たのは1973年夏のことである。大阪大学医学部を卒業して付属病院に勤める研修医だった。男性患者の岩佐嘉寿幸(かずゆき)さんは、右膝の内側に直径約10センチの黒褐色の炎症が認められ、右脚は浮腫で腫脹(しゅちょう)していた。

当時50歳の岩佐さんは阪大病院を訪れる2年前の71年5月27日、日本原子力発電敦賀原発(福井県)の原子炉建屋内で冷却水系のパイプに穴を開ける作業に従事した。皮膚科の田代実医師は半年間かけて岩佐さんの検診を続け、原発内部の立ち入り調査を行った末に「放射線皮膚炎(右膝)、2次性リンパ浮腫(右下腿(かたい))」とカルテに書いた。

村田さんは、田代医師の研究室に気安く出入りしており、岩佐さんの症状を確認している。「ベータ線熱傷の典型的な症状でした」と振り返り、こう説明する。「放射線による火傷で、事故後の福島第1原発で汚染水に触れた作業員にも同じ症状が見られました」

岩佐さんが敦賀原発で作業をしたとき、「計画停止」による点検と補修作業の最中だった。大阪市内の水道管工事会社に勤めていた岩佐さんは、熟練工の腕を買われた。

岩佐さんは作業服で身を包み、万年筆のようなポケット線量計を首から下げて、原子炉格納容器の入り口付近で作業を始めた。狭い場所に材木やパイプなどが散乱して雑然としていた。立会人は誰もいなく、岩佐さんは右膝を床面につけてパイプに穴を開ける作業を2時間半ほど続けた。

原発での作業は一度きりだったが、それから8日後、岩佐さんは高熱とけだるさに襲われる。右脚に赤いかぶれと水ぶくれができ、痛みを伴った。医院を転々としても原因がわからず、2年を経て阪大病院にたどり着いた。村田さんは「岩佐さんに出会って、原発の劣悪な労働環境を知りました」と述懐する。以来、村田さんは被ばく労働者に寄り添ってきた。

高知県生まれの村田さんは子どもの頃、教師の両親に連れられて平和行進に参加した。原水爆禁止運動の盛んな地域で、反戦・反核の教師として知られた父親は、口癖のように息子の村田さんに語りかけた。

「弱い人の立場で行動しろ、そうしていたら間違いはない」

岩佐さんの「核の傷痕」に思いをはせるにつけ、村田さんは、父親の言葉をかみしめるのだった。
=広岩近広
(次回は7月5日に掲載)

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