生活環境改善に力 帰還町民は1割弱
2016年9月4日 福島民報http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2016/09/post_14134.html
東京電力福島第一原発事故に伴い楢葉町に出されていた避難指示が解除されてから5日で丸1年になる。町は来春を帰町目標に掲げ、住宅の確保など町民の生活環境の改善に力を入れている。これまでに帰還した町民は1割弱で、放射線に対する不安解消など震災前の生活に戻るにはなお課題が残る。
町役場近くの6号国道沿いにあるのが、町が復興拠点と位置付けるコンパクトタウン。土砂を運ぶ大型トラックが行き交い、災害公営住宅と分譲住宅の宅地造成工事が急ピッチで進む。災害公営住宅は来年3月までに123戸が完成し、宅地も近く分譲を開始する予定だ。
急ピッチで造成工事が進む楢葉町のコンパクトタウンの災害公営住宅の建設予定地 |
町によると2日現在、町民約7400人のうち町内で生活を再開したのは681人。住宅のリフォームや新築工事が進んでいる。来春には、いわき市にある認定こども園と小中学校を町内で再開する予定だ。町は「来春の帰町目標に合わせて帰還する町民が増えるのでは」と期待する。
来春のオープンを目指していたコンパクトタウン内の商業施設は開業が約1年遅れる見通しだが、入居店舗はほぼ固まってきた。今年2月には県立大野病院付属ふたば復興診療所、7月には蒲生歯科医院が診療を開始するなど医療環境も整いつつある。
ただ、帰還した町民の多くは高齢者で、若い世代や子どもの姿は少ない。町は依然として放射線に対する不安があるためと分析している。町内下小塙の自営業松本拓さん(68)は「町民の不安をなくすためにも除染廃棄物の袋が山積みされた景観を解消してほしい」と訴える。松本幸英町長は「仮置き場の集約化などを国と調整している。町民が安心して戻れる環境づくりに全力を挙げる」と話している。
「地元再開」に壁 避難解除後の商工業者、帰還見通せず二の足
2016年09月04日 福島民友http://www.minyu-net.com/news/news/FM20160904-106189.php
東京電力福島第1原発事故で避難指示が出た12市町村の商工会に所属する事業者のうち、地元に戻って事業を再開した事業者は22%にとどまることが県商工会連合会の調査で分かった。帰還困難区域以外の区域で避難指示解除が相次ぐ中、国や県は、産業の再生は住民が古里に戻るための基盤になるとしてさまざまな支援策を設けているが、解除後の住民の帰還状況や将来的な経営が見通せないとして地元再開に踏み切れない事業者も多い。
◆◇◇奮起と不安
「古里の復興に役立ちたいと奮起したけど、不安もある」。南相馬市小高区で理髪店を営む松本篤樹(とくじゅ)さん(77)は、避難してから願い続けてきた地元での店舗再開を今月下旬に控え、こうつぶやいた。再開後は比較的帰還意識の高い高齢者が客層の中心になると見込み、国の補助金を活用して店内を改装し、車椅子に対応できる椅子や可動式の洗髪台、スロープを整備している。
再開後は息子と一緒に店に立ち、専門学校を出た孫も修業後に店に入る予定だ。しかし、店の周りの閑散とした景色を見るたび「5年もたてば避難先で行きつけの店もできる。ただでさえ帰還する人が少ないのに、どのくらい戻ってくれるか」。不安を拭えない。
◇◆◇「鶏と卵」
県商工会連合会によると、12市町村の商工会の2747事業者のうち、地元で再開したのは604事業者(7月20日現在)と5分の1程度。避難指示解除の状況が異なるのでばらつきがあるが、昨年9月に避難指示が解除された楢葉町は1年近く経過しているものの事業を再開したのは全体の41.4%の104事業者にとどまる。
業種別では、復興事業に直結する建設業やガソリンスタンドなどの地元再開が多いのに対し、サービス業や小売り業の再開は少ない。暮らしに必要な商工業の再開を望む住民と、帰還者が少なければと赤字を懸念する事業者とで「鶏と卵」の関係が生じている。
◇◇◆支援にも難題
避難区域での事業再建に向けては、国や県などの多様な補助メニューが設けられている。一方、震災から5年以上が経過し、避難区域の事業者が既に避難先で事業を再開していたり、地元再開を選択しない事業者がいる中、県内商工業者からは「避難区域と並行して区域外の支援策ももっと重視すべきだ」との声も増えている。避難区域だけに支援の目を向けてしまうと、県内の産業全体を見たときに、ひずみが生じてしまう可能性がある。事業者を支援する側にも難題が課せられている。
県は昨年10月、12市町村外の中小企業を中心にカバーする連絡協議会を設立。また、県商工会連合会は今年、避難区域外の事業者を対象にしたアンケートを初めて実施し、支援強化に向け分析を進めている。同連合会の担当者は、震災から5年半がたとうとする県内商工業の現状を「避難区域外の事業者は、十分な補償がないまま今に至る。区域外の事業者が抱える課題は深刻だ」と指摘する。
http://mainichi.jp/articles/20160905/k00/00e/040/140000c
福島県楢葉町で東京電力福島第1原発事故による避難指示が解除されて5日で1年。4年半にわたる全町避難の影響は大きく、町に戻った町民は2日現在で9.2%の681人にとどまる。実際に仮設商店街に建つプレハブのスーパーでは、客の9割近くを復興作業員が占めている。店主の根本茂樹さん(54)は町民の暮らしを支える本格的な店舗の再開を目指しており「一歩ずつ前に進みたい」と話す。
楢葉町を南北に貫く国道6号。平日は第1原発周辺へ向かう工事車両や作業員らを乗せた車がひっきりなしに行き交う。昼になると、道沿いにある「ここなら商店街」に軒を連ねる根本さんのスーパーと食堂2軒は作業服姿の男性で混み合う。肉や魚を並べた生鮮品の売り場に、町民の姿がちらほら見られるのは、昼前と夕方だ。
原発事故前、根本さんは駅前に2店舗を構え、宅配や送迎など要望に応えて固定客を増やした。だが、父の代から50年かけて育ててきた商売は「いまだに何が起きたのか実感がない」という原発事故で一瞬にして崩れた。
それでも2カ月後には隣町の旅館の駐車場で作業員に弁当などを売るプレハブ売店を開き、その後も周囲の求めに応じ仮設住宅などに店を出した。再起できたのは「立ち止まって考えるより、目の前にある仕事を何でもやった結果だ」という。
今、楢葉町は仮設商店街近くに、災害公営住宅や大型商業施設を備える23ヘクタールの復興拠点「コンパクトタウン」の造成を進める。根本さんも「商売が成り立つ形にして子どもにバトンを渡したい」と出店に前向きだ。元の2店舗分の規模にし、住民が町外に買い出しに行かなくても済む店にしたいと望んでいる。
だが、町民が戻らぬまま店を出しても、商売は3カ月と続くとは思えない。避難が長期化し、町外で自宅を購入したり、家族が避難先の学校や病院に通っていたりして、すぐに帰れない人も多い。根本さん自身も同県いわき市に自宅を新築し、高校2年の次女を同市の学校に通わせているため帰還の予定はない。
「顧客が戻るまでの間の補償が店の生命線だ」と考え、町や東電に掛け合ったものの、回答はなく、出店の最終判断をできずにいる。町は来年春を「帰町目標」に生活環境を整え、本格的な帰還を進める方針だ。しかし商業施設については出店者を確定できず開業目標を1年先送りにした。
ただ数字に表れなくても、根本さんのように避難先と行き来したり、自宅の解体や修理に着手したりする町民の姿も目立ち始めた。
根本さんは「町はリハビリ中で、支援が必要。でも、町民の多くは前を向いている。着々とやればいずれ復興する」と言う。時間はかかっても古里を取り戻すため、力を尽くすつもりだ。【乾達】
2016年9月5日 日本経済新聞
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG04H1O_V00C16A9CR0000/
東京電力福島第1原子力発電所事故で福島県楢葉町のほぼ全域に出ていた避難指示が解除されて5日で1年がたつ。基幹産業である農業は事故の影響で担い手が不足。町は、花など原発事故の風評の影響を受けにくい作物の栽培を進めることで、農業復活を目指し、若手を町に呼び込みたい考えだ。
町内では、今年2月に県立診療所が設立されるなど3つの病院が開院し、生活インフラの整備が進む。だが、8月4日現在、町に帰還したのは641人で、解除時の人口を基にした帰還率は8.7%。その約半数が65歳以上の高齢者だ。
「農業じゃ食っていけないからって、近所の農家がどんどんやめていくんだ」。避難先の同県いわき市の仮設住宅と楢葉町の自宅を往復する塩井淑樹さん(65)は寂しそうに話す。コメ農家だった塩井さんは事故後、県産のコメの価格が下落したことを受け、風評の影響を受けにくい花卉(かき)農家に転身。昨年からトルコギキョウを栽培し、出荷している。
しかし、塩井さんのように新しい作物を作り始めたり、コメ作りを再開したりする人はごくわずかだ。
町によると、原発事故前の2010年、町内のコメの作付面積は約410ヘクタールで、約440軒あった農家のほとんどがコメ作りをしていた。しかし、今年コメを作付けしたのは14軒で作付面積は20ヘクタール程度にとどまる。花卉栽培を始めた農家も数軒だ。
原発事故の風評で農業経営がなかなか成り立たないことに加え、避難指示の解除まで4年半かかり、農家のやる気がなくなっているという。「解除されたって風評被害がなくなるわけじゃない。このままでは、楢葉の農業は駄目になっちまう」と、塩井さんは心配している。
松本幸英町長は、高く売れる作物を作ることが農業再生に必要だと強調。「農業を魅力的なものにできれば、若い世代が楢葉に戻ってきてくれると信じている」と話した。〔共同〕
再開後は息子と一緒に店に立ち、専門学校を出た孫も修業後に店に入る予定だ。しかし、店の周りの閑散とした景色を見るたび「5年もたてば避難先で行きつけの店もできる。ただでさえ帰還する人が少ないのに、どのくらい戻ってくれるか」。不安を拭えない。
◇◆◇「鶏と卵」
県商工会連合会によると、12市町村の商工会の2747事業者のうち、地元で再開したのは604事業者(7月20日現在)と5分の1程度。避難指示解除の状況が異なるのでばらつきがあるが、昨年9月に避難指示が解除された楢葉町は1年近く経過しているものの事業を再開したのは全体の41.4%の104事業者にとどまる。
業種別では、復興事業に直結する建設業やガソリンスタンドなどの地元再開が多いのに対し、サービス業や小売り業の再開は少ない。暮らしに必要な商工業の再開を望む住民と、帰還者が少なければと赤字を懸念する事業者とで「鶏と卵」の関係が生じている。
◇◇◆支援にも難題
避難区域での事業再建に向けては、国や県などの多様な補助メニューが設けられている。一方、震災から5年以上が経過し、避難区域の事業者が既に避難先で事業を再開していたり、地元再開を選択しない事業者がいる中、県内商工業者からは「避難区域と並行して区域外の支援策ももっと重視すべきだ」との声も増えている。避難区域だけに支援の目を向けてしまうと、県内の産業全体を見たときに、ひずみが生じてしまう可能性がある。事業者を支援する側にも難題が課せられている。
県は昨年10月、12市町村外の中小企業を中心にカバーする連絡協議会を設立。また、県商工会連合会は今年、避難区域外の事業者を対象にしたアンケートを初めて実施し、支援強化に向け分析を進めている。同連合会の担当者は、震災から5年半がたとうとする県内商工業の現状を「避難区域外の事業者は、十分な補償がないまま今に至る。区域外の事業者が抱える課題は深刻だ」と指摘する。
避難解除1年、帰還9.2% 本格店舗へ一歩
2016年9月5日 毎日新聞http://mainichi.jp/articles/20160905/k00/00e/040/140000c
福島県楢葉町で東京電力福島第1原発事故による避難指示が解除されて5日で1年。4年半にわたる全町避難の影響は大きく、町に戻った町民は2日現在で9.2%の681人にとどまる。実際に仮設商店街に建つプレハブのスーパーでは、客の9割近くを復興作業員が占めている。店主の根本茂樹さん(54)は町民の暮らしを支える本格的な店舗の再開を目指しており「一歩ずつ前に進みたい」と話す。
仮設商店街で町民の帰還を待ちながら本格店舗の再開を目指す根本茂樹さん =福島県楢葉町の「ここなら商店街」で2016年9月2日、乾達撮影 |
楢葉町を南北に貫く国道6号。平日は第1原発周辺へ向かう工事車両や作業員らを乗せた車がひっきりなしに行き交う。昼になると、道沿いにある「ここなら商店街」に軒を連ねる根本さんのスーパーと食堂2軒は作業服姿の男性で混み合う。肉や魚を並べた生鮮品の売り場に、町民の姿がちらほら見られるのは、昼前と夕方だ。
原発事故前、根本さんは駅前に2店舗を構え、宅配や送迎など要望に応えて固定客を増やした。だが、父の代から50年かけて育ててきた商売は「いまだに何が起きたのか実感がない」という原発事故で一瞬にして崩れた。
福島県楢葉町 |
それでも2カ月後には隣町の旅館の駐車場で作業員に弁当などを売るプレハブ売店を開き、その後も周囲の求めに応じ仮設住宅などに店を出した。再起できたのは「立ち止まって考えるより、目の前にある仕事を何でもやった結果だ」という。
今、楢葉町は仮設商店街近くに、災害公営住宅や大型商業施設を備える23ヘクタールの復興拠点「コンパクトタウン」の造成を進める。根本さんも「商売が成り立つ形にして子どもにバトンを渡したい」と出店に前向きだ。元の2店舗分の規模にし、住民が町外に買い出しに行かなくても済む店にしたいと望んでいる。
だが、町民が戻らぬまま店を出しても、商売は3カ月と続くとは思えない。避難が長期化し、町外で自宅を購入したり、家族が避難先の学校や病院に通っていたりして、すぐに帰れない人も多い。根本さん自身も同県いわき市に自宅を新築し、高校2年の次女を同市の学校に通わせているため帰還の予定はない。
「顧客が戻るまでの間の補償が店の生命線だ」と考え、町や東電に掛け合ったものの、回答はなく、出店の最終判断をできずにいる。町は来年春を「帰町目標」に生活環境を整え、本格的な帰還を進める方針だ。しかし商業施設については出店者を確定できず開業目標を1年先送りにした。
ただ数字に表れなくても、根本さんのように避難先と行き来したり、自宅の解体や修理に着手したりする町民の姿も目立ち始めた。
根本さんは「町はリハビリ中で、支援が必要。でも、町民の多くは前を向いている。着々とやればいずれ復興する」と言う。時間はかかっても古里を取り戻すため、力を尽くすつもりだ。【乾達】
原発避難解除1年、農業担い手の帰還進まず 福島・楢葉
2016年9月5日 日本経済新聞http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG04H1O_V00C16A9CR0000/
東京電力福島第1原子力発電所事故で福島県楢葉町のほぼ全域に出ていた避難指示が解除されて5日で1年がたつ。基幹産業である農業は事故の影響で担い手が不足。町は、花など原発事故の風評の影響を受けにくい作物の栽培を進めることで、農業復活を目指し、若手を町に呼び込みたい考えだ。
町内では、今年2月に県立診療所が設立されるなど3つの病院が開院し、生活インフラの整備が進む。だが、8月4日現在、町に帰還したのは641人で、解除時の人口を基にした帰還率は8.7%。その約半数が65歳以上の高齢者だ。
「農業じゃ食っていけないからって、近所の農家がどんどんやめていくんだ」。避難先の同県いわき市の仮設住宅と楢葉町の自宅を往復する塩井淑樹さん(65)は寂しそうに話す。コメ農家だった塩井さんは事故後、県産のコメの価格が下落したことを受け、風評の影響を受けにくい花卉(かき)農家に転身。昨年からトルコギキョウを栽培し、出荷している。
しかし、塩井さんのように新しい作物を作り始めたり、コメ作りを再開したりする人はごくわずかだ。
町によると、原発事故前の2010年、町内のコメの作付面積は約410ヘクタールで、約440軒あった農家のほとんどがコメ作りをしていた。しかし、今年コメを作付けしたのは14軒で作付面積は20ヘクタール程度にとどまる。花卉栽培を始めた農家も数軒だ。
原発事故の風評で農業経営がなかなか成り立たないことに加え、避難指示の解除まで4年半かかり、農家のやる気がなくなっているという。「解除されたって風評被害がなくなるわけじゃない。このままでは、楢葉の農業は駄目になっちまう」と、塩井さんは心配している。
松本幸英町長は、高く売れる作物を作ることが農業再生に必要だと強調。「農業を魅力的なものにできれば、若い世代が楢葉に戻ってきてくれると信じている」と話した。〔共同〕
避難解除1年>癒えぬ後遺症 楢葉帰還9%
2016年9月5日 河北新報
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201609/20160905_63014.html
東京電力福島第1原発事故で福島県楢葉町に出ていた避難指示が解除され、5日で1年となった。町は少しずつ生活感を取り戻しつつあるが、帰還した町民は2日現在、9.2%の681人(376世帯)にとどまる。地域社会を崩した原発事故。復興には長い時間が必要なことを、改めて浮き彫りにしている。(いわき支局・古田耕一)
<60歳以上が66%>
埼玉県に避難していた永山直幸さん(75)、セツ子さん(71)夫妻は自宅の修繕が終わった今年5月に帰町した。「やはり、わが家は最高」と口をそろえる。
商業施設がほとんど再開しておらず、週2、3回、いわき市に買い物に行く。「車で片道30分。不便と言えば不便かな」と直幸さん。セツ子さんは生涯学習で藍染めに挑戦したり、体操教室に通ったりと「結構忙しい」毎日を送る。
帰町者の推移、年代別はグラフの通り。町は今年1月、一定程度の住民が戻る「帰町目標」を2017年春に設定。「16年度に帰町の波をつくる」との考えだが、まだペースは上がらない。帰町者は、60歳以上が66.8%、65歳以上が53.5%を占める。
永山さん夫妻も事故前は両親、長男と5人で暮らし、長女夫婦と孫2人が近くに住んでいた。避難中に両親は他界。長男はいわき市に住む。一緒に避難した長女家族は、学校や仕事の関係で埼玉に根を下ろす。
直幸さんは、1ヘクタールの田で自らがコメを作るのを諦めた。「避難して5年もたてば、皆それぞれの事情を抱える。なかなか昔のようには戻らない」と話す。
<事業再開手探り>
楢葉町は丸ごと避難した自治体で初めて避難指示が解除された。除染終了から1年5カ月の期間があり、全域で居住可能になった。来年春の帰還開始を目指す富岡町や浪江町は除染終了が本年度で、高線量の帰還困難区域が町を分断する。
「トップランナー」と言われる楢葉町でも、全町避難の後遺症は重い。町内で事業を再開した商工業者は建設業などが中心の4割で、小売りやサービス業は少ないまま。福祉や農業の再構築は緒に就いたばかりで、人手不足も重なり、手探りの状態が続く。
「帰町目標」の前提にも誤算が生じた。町は拠点として整備中の「コンパクトタウン」に17年春、公設商業施設と123戸の災害公営住宅を完成させる計画だった。商業施設は出店調整に時間を要し、1年遅れる見込み。公営住宅は約50戸が17年6月にずれこむ。
町復興推進課は「今は帰町準備の段階。住宅の修繕や新築が進み、避難先との二重生活を送る人もいる。年度替わりに、帰町者がかなり増えるのではないか。来春、小中学校が再開すれば、町の雰囲気も変わる」と期待する。
いわき明星大(いわき市)の高木竜輔准教授(地域社会学)は「原発事故被災地の復旧には長い時間がかかり、帰町の条件も人によって違う」と指摘。「楢葉町の現状は、解除を控える富岡町や浪江町などの復興を考えるための試金石とも言える。スケジュールありきではなく、一人一人に寄り添った柔軟な支援が必要だ」と話す。
東京電力福島第1原発事故で福島県楢葉町に出ていた避難指示が解除され、5日で1年となった。町は少しずつ生活感を取り戻しつつあるが、帰還した町民は2日現在、9.2%の681人(376世帯)にとどまる。地域社会を崩した原発事故。復興には長い時間が必要なことを、改めて浮き彫りにしている。(いわき支局・古田耕一)
<60歳以上が66%>
埼玉県に避難していた永山直幸さん(75)、セツ子さん(71)夫妻は自宅の修繕が終わった今年5月に帰町した。「やはり、わが家は最高」と口をそろえる。
商業施設がほとんど再開しておらず、週2、3回、いわき市に買い物に行く。「車で片道30分。不便と言えば不便かな」と直幸さん。セツ子さんは生涯学習で藍染めに挑戦したり、体操教室に通ったりと「結構忙しい」毎日を送る。
帰町者の推移、年代別はグラフの通り。町は今年1月、一定程度の住民が戻る「帰町目標」を2017年春に設定。「16年度に帰町の波をつくる」との考えだが、まだペースは上がらない。帰町者は、60歳以上が66.8%、65歳以上が53.5%を占める。
永山さん夫妻も事故前は両親、長男と5人で暮らし、長女夫婦と孫2人が近くに住んでいた。避難中に両親は他界。長男はいわき市に住む。一緒に避難した長女家族は、学校や仕事の関係で埼玉に根を下ろす。
直幸さんは、1ヘクタールの田で自らがコメを作るのを諦めた。「避難して5年もたてば、皆それぞれの事情を抱える。なかなか昔のようには戻らない」と話す。
<事業再開手探り>
楢葉町は丸ごと避難した自治体で初めて避難指示が解除された。除染終了から1年5カ月の期間があり、全域で居住可能になった。来年春の帰還開始を目指す富岡町や浪江町は除染終了が本年度で、高線量の帰還困難区域が町を分断する。
「トップランナー」と言われる楢葉町でも、全町避難の後遺症は重い。町内で事業を再開した商工業者は建設業などが中心の4割で、小売りやサービス業は少ないまま。福祉や農業の再構築は緒に就いたばかりで、人手不足も重なり、手探りの状態が続く。
「帰町目標」の前提にも誤算が生じた。町は拠点として整備中の「コンパクトタウン」に17年春、公設商業施設と123戸の災害公営住宅を完成させる計画だった。商業施設は出店調整に時間を要し、1年遅れる見込み。公営住宅は約50戸が17年6月にずれこむ。
町復興推進課は「今は帰町準備の段階。住宅の修繕や新築が進み、避難先との二重生活を送る人もいる。年度替わりに、帰町者がかなり増えるのではないか。来春、小中学校が再開すれば、町の雰囲気も変わる」と期待する。
いわき明星大(いわき市)の高木竜輔准教授(地域社会学)は「原発事故被災地の復旧には長い時間がかかり、帰町の条件も人によって違う」と指摘。「楢葉町の現状は、解除を控える富岡町や浪江町などの復興を考えるための試金石とも言える。スケジュールありきではなく、一人一人に寄り添った柔軟な支援が必要だ」と話す。
商業施設は1年延期、風評被害も不安…楢葉町、帰還阻むハードル
2016年9月4日 産経新聞http://www.sankei.com/affairs/news/160904/afr1609040022-n1.html
避難指示解除から丸1年を迎えても将来が見通せない。新たな住宅や商業施設の建設に向け、重機の音が響く福島県楢葉町。農業再開や診療所開設など着実に復興への道を歩んでいるものの、風評被害や生活インフラの未整備といった住民の帰還を妨げる障害の克服は一筋縄ではいかない。(野田佑介、緒方優子)
6年ぶりの喜び
「今年は晴れの日が多かったから実入りが良いぞ」。農業を営む柴田富夫さん(76)はそう話す。
原発事故による放射性物質の推移を調べるため、稲作は昨年まで制限。試験栽培で収穫したコメは、廃棄するか動物の餌にするしかなかった。「ずっと待っていたから、言葉では言い表せないな」。柴田さんは6年ぶりに本格的なコメ作りができた喜びをこう語る。先祖代々受け継いできた田畑。荒れたままにしておけないという思いがあった。
だが風評被害への不安は拭えない。町によると、町内のコメの栽培面積は原発事故前の平成22年度(410ヘクタール)の1割にも満たない。「この状況をチャンスに変えないとだめだ」
「コメを作れるのはうれしいが風評被害への不安がある」と話す柴田富夫さん
=1日、福島県楢葉町(野田佑介撮影)
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診療所開設で光
避難指示解除から5カ月後、町内に待望の診療所が開設された。
「これから気候が良くなるから、散歩に出られるといいですよ」。県立ふたば復興診療所の待合室で、主婦、松本和子さん(65)は、薬剤師の女性の言葉に笑顔でうなずいた。
避難先のいわき市から、息子と一緒に町内の自宅に帰ってきた。仮設住宅では隣近所に気を使うため40年ほど過ごしてきた楢葉に早く戻りたかったが、医療体制に不安があった。「ここができたから戻ってきたの。やっぱり心強いよね」
診療所によると、患者の約7割が60歳以上。所長の伊藤博元さんは「診療所の開設が住民の安心感につながっているのではないか。近隣にある医療機関と連携しながら、さらに体制を整えていきたい」と話す。
買い物ができる環境は…
帰還を妨げている理由の一つは、買い物ができる環境が十分に整っていないことだ。公設の商業施設は出店者との条件が折り合わないなどの理由から、開業は1年先送りとなった。町内に戻る住民が少ないため、収益が見込めず経営に不安を抱える商店主もいる。
町役場近くの仮設商店街で、食料品や日用品を扱う町内唯一のスーパーを営む根本茂樹さん(54)は今春、町の要望を受けて商業施設への出店を決めた。
仮設商店街で年間7千万円あった赤字は、解除後の1年間で改善しているが、その土台になっていた東電からの賠償金は来年3月に打ち切られる。
新規出店しても、客数が確保できなければ経営は成り立たない。一方で、買い物をする店がなければ住民は戻らない。相反する構図が復興の足を引っ張る。
「国も東電も、向こうから手を差し伸べてはくれない。だからって、指くわえてみてたら何も始まらない」。根本さんはこうつぶやいた。
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