【想う】 10月 福岡で居酒屋経営、塩田浩一さん(51)
2016年10月10日 産経新聞http://www.sankei.com/region/news/161010/rgn1610100004-n1.html
■故郷離れても震災語り継ぐ 「子供のため」福島から移住
「福岡の人たちは温かく受け入れてくれた。この地になじみ、溶け込んでいきたい」
福島県須賀川市から福岡市に移り住み、中心部の繁華街で居酒屋「皓(こう)の月」を営む塩田浩一(ひろかず)さん(51)は自慢の日本酒を手に話す。
東京電力福島第1原発事故を受けて移住を決意した。昨年からは震災の風化と防ごうと、福岡市内で震災の経験を語る「語り部」としても活動している。
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平成23年3月11日、須賀川市内で経営していた居酒屋の昼営業が終わり、昼食を食べていると大きな揺れが襲った。駐車場では車が飛び跳ね、映画のワンシーンのようだった。
約1カ月、店での生活を余儀なくされた。テレビは東京電力福島第1原発の事故を伝える。何が起きているのか、まったくわからない状況だった。
息子2人は当時14歳と11歳。自宅は原発から約60キロ離れた場所だが、ネットや報道で原発事故や放射性物質について調べるうちに不安は募っていった。
約1カ月後、店を再開してからも迷いは続いた。生まれ育った地元を離れたくないが、子供たちの将来を考えると心配は尽きない。店の存続についても悩んだ。自信を持って「安全だ」と言えないものは客に出せない。翌年、福岡への移住を決断した。
友人や常連客から「頑張って」と応援の声をもらう一方で、「大将、俺たちを捨てていくのか」と責められることもあったという。
「被災者同士で、なぜいがみ合わなければならないのだろう」
寂しさやつらさをすべてのみ込み、福島を去った。
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移住先に福岡を選んだのは、それまでに仕入れなどの際に立ち寄り、優れた食材と繁華街の活気に魅力を感じていたからだ。
だが、知り合いや親戚のいない場所での生活は苦労の連続だった。高校生と中学生の息子たちが学校になじめるか、という問題もあった。
現在の店のオープンにこぎつけたのは移住から1年後の25年2月。店名は九州一の繁華街・中洲に流れる那珂川に照らし出される白い月をイメージした。
サトイモの唐揚げなど、震災前から提供していた自慢の料理は福岡の客からも好評だった。新たな客に恵まれ、復興支援を行う福岡市のボランティア団体や福島県出身者の集まりなど、さまざまなつながりもできた。須賀川市からわざわざ店を訪ねてきてくれる昔の常連客もいる。
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「誰だって、ふるさとを離れたくはない」
福島への思いは今でも変わらない。
東日本大震災の後も各地で災害が起きている。4月に熊本地震が発生した際には、震災の教訓が生かされているのか疑問が浮かんだ。一方、福岡では震災や原発事故についての報道が少ないとも感じている。
「原発事故もまだ終わっていないのに…」
福岡で知り合ったボランティア団体の誘いもあって、昨年5月ごろからは、店内や市内の交流センターで震災の経験を話す場を持つようになった。福島出身者として、体験した悩みや葛藤を伝えている。
「原発事故のような悲惨な出来事を二度と繰り返さないためにも、震災を忘れてはいけない」
そんな思いが原動力になっている。(上田直輝)
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【プロフィル】塩田浩一
しおだ・ひろかず 昭和40年、福島県須賀川市出身。県内や東京都内で料理の修業を積み、30代半ばの頃、地元で居酒屋「ほおずき」を開業。東日本大震災で被災し、平成24年2月に福岡市に移住。翌年、「皓の月」を開業した。
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