岩本千枝子さん=長崎市平和町の自宅で |
■岩本千枝子さん(1939年生まれ)東日本大震災による東京電力福島第一原発の事故。「同じ放射能の影響を受けた者として、ひとごとではない」。長崎市平和町の岩本(いわもと)(旧姓村本)千枝子(ちえこ)さん(76)は、反原発の市民団体NAZEN(ナゼン)ナガサキ(すべての原発いますぐなくそう!全国会議 ナガサキ)の一員。夏休みに福島県から親子を受け入れる「保養」の活動に参加し、今年で3年目になる。
昨夏は、大村市のキャンプ場で開催。子どもたちは水着姿で次々に川に飛び込み、おおはしゃぎ。普段は放射能の影響が気がかりで外で思いっきり遊べないが、車で片道40分の海水浴場にも毎日通い、真っ黒に日焼けして帰ったという。「来た時はちょっと暗い表情だった子も、外で遊ぶうちに笑顔になった」と岩本さん。
原点にあるのは6歳の時、爆心地から1・5キロの銭座町で被爆したこと。「福島の人たちの不安がよくわかる。私にできることをしたい」と考えている。
岩本さんは、郵便局員の父克巳(かつき)さんと母ミカさんの長女として長崎市銭座町で生まれた。同居していた祖母の力寿(かじゅ)さんは毎晩、岩本さんを抱いて眠る優しい人だった。
ところが、原爆が投下される1年前の1944年7月、岩本さん一家に悲しい出来事があった。
弟の哲夫(てつお)君(当時3)がはしかをこじらせ、亡くなった。岩本さんは「てっちゃん」と呼んでかわいがり、共同浴場に一緒に行った時、哲夫君の背中を流してやったことを今でも覚えている。
戦争中で医師も薬も不足し、十分な治療を受けられなかったという。「戦争中でなければ、きっと治る病気だった。お医者さんにしっかり診てもらえれば助かったはずなのに……」と悔やんでいる。
その年の8月、家族は哲夫君のために精霊船を出した。「立派な船だった、と親戚が教えてくれた。物がない時代でも、両親は息子への思いを込めたんだと思う」
「小さい時の記憶は多くない」という岩本さん。だが、幼稚園児のとき、空襲警報が発令されると、家まで走って逃げ帰ったこと、その時の「怖い」という気持ちは今も鮮明に覚えているという。
1945年4月、岩本さんは銭座国民学校に入学した。父克巳さんは長女の入学をとても喜び、張り切って赤いランドセルを買ってくれた。岩本さんは「ぴかぴかで、うれしかった」と振り返る。
だが、学校に慣れ始めた6月ごろ、校舎での授業はなくなった。代わりに近くの神社の境内に先生が出張し、寺子屋形式で学ぶようになったという。岩本さんは子どもながらに「まさか長崎が攻撃されるなんて。学校は夏休みに入ったんだな」と思っていたという。
8月9日は朝から友だち数人と近所の広場で遊んでいた。午前11時前ごろ、誰かが「お昼がすんでからまた遊ぼう」と言い出した。それをきっかけに家路についた岩本さんは原爆の直撃を免れることになる。
近所の広場で遊んでいた岩本さんが長崎市銭座町の自宅に着くと、母ミカさんが、押し入れから布団を出して、生まれて75日目の妹タミ子さんを寝かせようとしているところだった。
外で遊んでのどが渇いていた岩本さんは、台所の水がめから、ひしゃくで水をすくい、ゴクゴクと飲んでいた。その時、航空機が近づくような轟音(ごうおん)がした。突然ミカさんが叫んだ。「千枝子、おいで」
押し入れの下の段に引き込まれて、戸を閉めた瞬間――。ピカッと閃光(せんこう)が走り、ガラガラガラと建物が崩れる音がした。
しばらくして戸をあけると、タミ子さんは崩れた土壁に埋もれ、泣き声もあげられずにいた。ミカさんはタミ子さんを抱き上げ、息を確認し、目に入った土を舌でぬぐい、やっとの思いで家から逃げ出した。
岩本さんの家はかろうじて立っていたが、近隣の家は倒壊。数時間後には付近の火災に巻き込まれて焼失してしまったという。
金比羅山の防空壕(ごう)に逃げ込んだ岩本千枝子さんたちだったが、郵便局へ働きに出ていた父克巳さんの行方はわからなかった。岩本さんは「父ちゃん、死んだ」と涙が止まらなかったという。
9日間ほど防空壕で過ごしたあと、落ち着きを取り戻した母ミカさんは、立山の実家を訪ねてみた。実家は爆風で瓦が落ちるなど被害はあったが、建物はしっかりしていて、身を寄せることができた。そこで克巳さんの無事も確認することができ、一家は安心して喜び合ったという。
2、3日は親戚の家を転々としたが、片淵に借家を見つけることができ、すぐに移転した。
当時は大人について歩くのが精いっぱいで、「怖いと思う余裕すらなかった」。だが、銭座国民学校では850人の児童のうち500人が死亡した。あの日一緒に遊んでいた中で名前を覚えている「オオグシさん」と「イモトさん」の安否は今もわからない。
岩本さんは59年、長崎大学芸学部(現在の教育学部)の2年課程を卒業し、長与町で小学校の教員になった。
初年度に担当した4年生は55人の大所帯。元気いっぱいの子どもたちに手を焼き、悔し涙を流すこともあったが、今となっては楽しい思い出だ。
教員だった14年間、子どもたちのための努力は惜しまなかった。日曜日も学校に行って理科の教材用の万華鏡を手作りし、教室に通ってピアノを練習して卒業式で「仰げば尊し」の伴奏をしたこともあった。
ただ、当時は学校で戦争や原爆についての平和教育はなかったように記憶している。被爆者への理解が広がっておらず、差別を受けたり、貧しい生活の中で日々の暮らしに追われたりしている人もいた。岩本さんも「8月9日は夏休み中で、特別に子どもたちに原爆について語る機会もなかった」と振り返る。
善行(よしゆき)さん(80)と結婚し、2人の子どもに恵まれたあとも、33歳まで教員を続けた。
岩本さんは2004年、頼まれて同窓会誌に被爆体験を寄稿した。それまで「もっと大変な経験をした方がいる」との思いから積極的に被爆体験を語らなかったという。
同じころ、親戚の故・崎田昭夫(さきたあきお)さんの誘いで、長崎原爆資料館などのガイドをする平和案内人の研修も受けた。最初は説明文を覚えるのがやっと。講師から「被爆者の気持ちが伝わらない」と厳しい指導を受け、涙したこともあった。だが、「崎田さんが原爆症で入退院を繰り返しながら体験を語り続けた姿に背中を押された」。平和案内人を11年間続けてきた。
活動を通じて様々な出会いもあった。世界一周の途中で長崎を訪れた女性は、旅先から何枚もはがきをくれた。修学旅行生や海外からの旅行客の前でも話した。3年前からは、原爆が投下されなければ卒業するはずだった長崎市立銭座小学校で子どもたちに語る。岩本さんは「様々な出会いがあった。勇気を出して始めてよかった」と思っている。
東日本大震災後、岩本さんは長崎で開かれた福島の現状についての講演会に参加し、衝撃を受けた。がんを発症する子どもに関する報告を聞き、原発事故は人間の手に負えないと感じた。「原発の再稼働はとても恐ろしいと思った」。それ以来、福島の親子を長崎に招く活動に参加するようになった。
3年前、高校時代から親友だった女性が急性骨髄性白血病と診断された。大浦で被爆した女性は病院に行って3日後に亡くなった。岩本さんは「今頃になって原爆の影響が出たのかと、鳥肌がたった」。だから、福島の人たちの不安は痛いほどわかる。
安倍政権による原発再稼働や集団的自衛権の議論は「急ぎすぎだ」と感じる。「原発事故も戦争も、体験した人は忘れない。政治家は反対意見にもしっかり耳を傾けるべきだ」と考える。目前に迫る九州電力川内原発再稼働のニュースを聞き「平和な暮らしを守るため、反対の声をあげていく」と気持ちを新たにした。(力丸祥子・28歳)
昨夏は、大村市のキャンプ場で開催。子どもたちは水着姿で次々に川に飛び込み、おおはしゃぎ。普段は放射能の影響が気がかりで外で思いっきり遊べないが、車で片道40分の海水浴場にも毎日通い、真っ黒に日焼けして帰ったという。「来た時はちょっと暗い表情だった子も、外で遊ぶうちに笑顔になった」と岩本さん。
原点にあるのは6歳の時、爆心地から1・5キロの銭座町で被爆したこと。「福島の人たちの不安がよくわかる。私にできることをしたい」と考えている。
岩本さんは、郵便局員の父克巳(かつき)さんと母ミカさんの長女として長崎市銭座町で生まれた。同居していた祖母の力寿(かじゅ)さんは毎晩、岩本さんを抱いて眠る優しい人だった。
ところが、原爆が投下される1年前の1944年7月、岩本さん一家に悲しい出来事があった。
弟の哲夫(てつお)君(当時3)がはしかをこじらせ、亡くなった。岩本さんは「てっちゃん」と呼んでかわいがり、共同浴場に一緒に行った時、哲夫君の背中を流してやったことを今でも覚えている。
戦争中で医師も薬も不足し、十分な治療を受けられなかったという。「戦争中でなければ、きっと治る病気だった。お医者さんにしっかり診てもらえれば助かったはずなのに……」と悔やんでいる。
その年の8月、家族は哲夫君のために精霊船を出した。「立派な船だった、と親戚が教えてくれた。物がない時代でも、両親は息子への思いを込めたんだと思う」
「小さい時の記憶は多くない」という岩本さん。だが、幼稚園児のとき、空襲警報が発令されると、家まで走って逃げ帰ったこと、その時の「怖い」という気持ちは今も鮮明に覚えているという。
1945年4月、岩本さんは銭座国民学校に入学した。父克巳さんは長女の入学をとても喜び、張り切って赤いランドセルを買ってくれた。岩本さんは「ぴかぴかで、うれしかった」と振り返る。
だが、学校に慣れ始めた6月ごろ、校舎での授業はなくなった。代わりに近くの神社の境内に先生が出張し、寺子屋形式で学ぶようになったという。岩本さんは子どもながらに「まさか長崎が攻撃されるなんて。学校は夏休みに入ったんだな」と思っていたという。
8月9日は朝から友だち数人と近所の広場で遊んでいた。午前11時前ごろ、誰かが「お昼がすんでからまた遊ぼう」と言い出した。それをきっかけに家路についた岩本さんは原爆の直撃を免れることになる。
近所の広場で遊んでいた岩本さんが長崎市銭座町の自宅に着くと、母ミカさんが、押し入れから布団を出して、生まれて75日目の妹タミ子さんを寝かせようとしているところだった。
外で遊んでのどが渇いていた岩本さんは、台所の水がめから、ひしゃくで水をすくい、ゴクゴクと飲んでいた。その時、航空機が近づくような轟音(ごうおん)がした。突然ミカさんが叫んだ。「千枝子、おいで」
押し入れの下の段に引き込まれて、戸を閉めた瞬間――。ピカッと閃光(せんこう)が走り、ガラガラガラと建物が崩れる音がした。
しばらくして戸をあけると、タミ子さんは崩れた土壁に埋もれ、泣き声もあげられずにいた。ミカさんはタミ子さんを抱き上げ、息を確認し、目に入った土を舌でぬぐい、やっとの思いで家から逃げ出した。
岩本さんの家はかろうじて立っていたが、近隣の家は倒壊。数時間後には付近の火災に巻き込まれて焼失してしまったという。
金比羅山の防空壕(ごう)に逃げ込んだ岩本千枝子さんたちだったが、郵便局へ働きに出ていた父克巳さんの行方はわからなかった。岩本さんは「父ちゃん、死んだ」と涙が止まらなかったという。
9日間ほど防空壕で過ごしたあと、落ち着きを取り戻した母ミカさんは、立山の実家を訪ねてみた。実家は爆風で瓦が落ちるなど被害はあったが、建物はしっかりしていて、身を寄せることができた。そこで克巳さんの無事も確認することができ、一家は安心して喜び合ったという。
2、3日は親戚の家を転々としたが、片淵に借家を見つけることができ、すぐに移転した。
当時は大人について歩くのが精いっぱいで、「怖いと思う余裕すらなかった」。だが、銭座国民学校では850人の児童のうち500人が死亡した。あの日一緒に遊んでいた中で名前を覚えている「オオグシさん」と「イモトさん」の安否は今もわからない。
岩本さんは59年、長崎大学芸学部(現在の教育学部)の2年課程を卒業し、長与町で小学校の教員になった。
初年度に担当した4年生は55人の大所帯。元気いっぱいの子どもたちに手を焼き、悔し涙を流すこともあったが、今となっては楽しい思い出だ。
教員だった14年間、子どもたちのための努力は惜しまなかった。日曜日も学校に行って理科の教材用の万華鏡を手作りし、教室に通ってピアノを練習して卒業式で「仰げば尊し」の伴奏をしたこともあった。
ただ、当時は学校で戦争や原爆についての平和教育はなかったように記憶している。被爆者への理解が広がっておらず、差別を受けたり、貧しい生活の中で日々の暮らしに追われたりしている人もいた。岩本さんも「8月9日は夏休み中で、特別に子どもたちに原爆について語る機会もなかった」と振り返る。
善行(よしゆき)さん(80)と結婚し、2人の子どもに恵まれたあとも、33歳まで教員を続けた。
岩本さんは2004年、頼まれて同窓会誌に被爆体験を寄稿した。それまで「もっと大変な経験をした方がいる」との思いから積極的に被爆体験を語らなかったという。
同じころ、親戚の故・崎田昭夫(さきたあきお)さんの誘いで、長崎原爆資料館などのガイドをする平和案内人の研修も受けた。最初は説明文を覚えるのがやっと。講師から「被爆者の気持ちが伝わらない」と厳しい指導を受け、涙したこともあった。だが、「崎田さんが原爆症で入退院を繰り返しながら体験を語り続けた姿に背中を押された」。平和案内人を11年間続けてきた。
活動を通じて様々な出会いもあった。世界一周の途中で長崎を訪れた女性は、旅先から何枚もはがきをくれた。修学旅行生や海外からの旅行客の前でも話した。3年前からは、原爆が投下されなければ卒業するはずだった長崎市立銭座小学校で子どもたちに語る。岩本さんは「様々な出会いがあった。勇気を出して始めてよかった」と思っている。
東日本大震災後、岩本さんは長崎で開かれた福島の現状についての講演会に参加し、衝撃を受けた。がんを発症する子どもに関する報告を聞き、原発事故は人間の手に負えないと感じた。「原発の再稼働はとても恐ろしいと思った」。それ以来、福島の親子を長崎に招く活動に参加するようになった。
3年前、高校時代から親友だった女性が急性骨髄性白血病と診断された。大浦で被爆した女性は病院に行って3日後に亡くなった。岩本さんは「今頃になって原爆の影響が出たのかと、鳥肌がたった」。だから、福島の人たちの不安は痛いほどわかる。
安倍政権による原発再稼働や集団的自衛権の議論は「急ぎすぎだ」と感じる。「原発事故も戦争も、体験した人は忘れない。政治家は反対意見にもしっかり耳を傾けるべきだ」と考える。目前に迫る九州電力川内原発再稼働のニュースを聞き「平和な暮らしを守るため、反対の声をあげていく」と気持ちを新たにした。(力丸祥子・28歳)
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