2015/10/30

東日本大震災から4年半(上) 岡山県の避難者の現状と課題

2015年10月07日 山陽新聞
http://www.sanyonews.jp/article/239930/1/

東日本大震災発生から4年半余り。震災直後、被災県から一時避難、あるいは定住目的で他府県への移住が相次ぎ、現在も被災エリアへの帰還は進んでいない。西日本で最も避難者、移住希望者が多い岡山県では、被災エリアからの一時避難は一段落したが、放射能汚染を懸念して東京をはじめとする関東圏から自主避難してくる移住組はいまだに後を絶たない。これに対し受け入れ側の県、市町村では公営住宅の新規提供などの支援措置を打ち切るケースも出ており、被災者からはもっと手厚い支援を求める声が高まっている。(おかやま財界)

岡山県への避難者数は西日本一


復興庁が発表した東日本大震災被災エリアからの全国避難者数は約19万5000人(9月10日現在)。このうち岡山県への避難者数は18市町村で1134人。被災エリア別では東電福島第1原発事故で放射能汚染があった福島県が317人、宮城県が68人、岩手県が5人。残りの744人は放射能汚染を避け、関東圏などから避難、移住してきた人たちだ。県内への避難、移住者数は西日本で一番多く、中国地方全体(1915人)の約60%で、四国4県(407人)の3倍弱に相当する。

岡山市北区建部町。旭川の近くで民家のリフォーム工事が進んでいる。近く東日本大震災の被災区域・栃木県からの移住家族が入居する予定だ。現場で忙しく大工仕事をこなす同町吉田、大工大塚愛さん(41)。大塚さんも実は大震災直後に福島県から両親がいる岡山市に家族で一時避難、翌2012年に建部町に来た移住組だ。福島県の実家は福島原発から約30キロ圏域にある双葉郡川内村。村内の一部が汚染エリアに指定されたが、今年10月1日に避難指示が解除された。汚染エリア以外の地域でも2年前から村が避難者に帰還を呼びかけているが、実際に帰還したのは500人程度で村内人口約3000人のうち、約1000人が他地域に“流出”したまま。大塚さんも今のところ帰還の意思はなく建部町に定住を希望している。

現在、建部町地区には大塚さんと同じように大震災を機に被災県や放射能汚染を心配して関東圏から一時避難、永住希望で移り住んできた家族が10世帯いる。多くの家族が大震災直後に大塚さんらが運営する支援団体「子ども未来・愛のネットワーク」の情報を頼りに建部町に移った。同ネットワークは大塚さんが代表を務め、2011年5月に被災者仲間らで立ち上げた。移住希望者の「お試し宿泊」施設を提供するシェアハウスを運営し、岡山産の野菜を福島県に直送する野菜プロジェクトなどを企画。メール会員などを募って被災地と岡山を結ぶ情報ネットワークを持ち、岡山の情報を被災者に発信している。また、福島原発事故の影響で、将来移住を検討している福島県内の被災者やその周辺被災者を対象に1週間程度、玉野市に滞在してもらう「保養プラン」を2012年冬から毎年実施、これまで9回開催し被災者約400人を招待した。こうした努力が実って過疎地域の建部町吉田に相次いで避難者が移住し、現在地元の竹枝小学校の全校児童33人のうち3分の1が避難家族の子どもで占められている。

避難移住者と地域住民との交流が大切

「被災者の意見を聞くと、希望の移住先は現地に被災者ネットワークがあり、放射能の安全性が確保されていること。教育環境も大切。それに食物が安全であること。もちろん原発から遠距離にあることが絶対条件。加えて地域住民とうまくやっていけるコミュニケーション組織があるかどうかが課題」と大塚さん。新規移住者と地域住民との壁をどう乗り超えるか。それは移住者にとって最大の関心事であり、避難者・移住者を支援する団体のネットワーク「うけいれネットワーク ほっと岡山」の服部育代さん=岡山市北区建部町=は「移住者と地域住民との交流がうまくいっている地域が、結果的に移住、定住先としての人気が高いところ」と言う。

ただ、建部町地区でも移住者と地域住民との交流が最初から順調だったわけではない。地元の竹枝小学校児童の3分の1が避難家族の子どもだったことで、一時は「村が乗っ取られる」という根も葉もない噂(うわさ)が一部に出たことがあった。学校給食の問題もあった。放射能汚染に敏感な移住者は一部で弁当持参を要望し、学校と話し合いで了解を得た。食品放射能測定器を使って地域の食材を検査するなど、「食の安全」を確保する運動を進め、移住者と地域住民との意識の溝を埋めていった。小学校活動で旭川の動植物を守る運動にも地域と一緒になって取り組んだ。「共通のテーマでお互いが理解を深め合い、地域住民との交流を深めていく作業は地道で多くの時間が必要」と大塚さん。地域住民との交流の場「よりカフェ」を定期的に開催し、3カ月に1回の割合で地域住民と一緒に町内新聞「タネピリカ」を発行。大塚さんは「いろいろ課題はあったが、地域に溶け込むことを考え、自然保護や原発問題など共通したテーマで地域の人とともに考え行動することができたのがよかった」と振り返る。


総社市、和気町でも民間の受け入れ態勢を充実

岡山市北区建部町、倉敷市と同様に、被災者の受け入れネットワークが進んでいるのが総社市と和気郡和気町。総社市北部の昭和地区では、被災地域からの避難者、移住者らがメンバーの被災者支援ネットワーク「おかげデザイン」を中心に、総社市、地区社会福祉協議会、地区婦人会、民間のまちづくり団体など6団体が協力して「おかやま昭和暮らしプロジェクト」を推進中。

これまで地域の歴史を紹介するドキュメンタリー映画を製作、まちづくりなどをテーマに定期的な公開ミーティングを開催している。9月21日には被災住民と地域住民ら約50人が参加して、同市内の吉備路で戦争反対、原発反対などのプラカードを持って「ピクニックデモ」も企画。その中心的なリーダーで大震災の年の2011年に東京から家族5人で移住した小林ふみこさん(39)=同市三須=は「被災者が地縁のない場所で住宅を探すのは大変。地域の温かい協力があったので総社市を選んだ」と話す。現在、正式に届け出たケースだけで約100人の被災者、自主避難者が同市で生活している。

和気郡和気町衣笠地区も、被災者の間で注目されている避難、移住先候補地。その拠点となっているのが母子避難シェアハウス「やすらぎの泉」。2011年7月に、地域のボランティアが空き家の古民家をリフォームして被災母子を受け入れ、翌年には別館を整備した。格安の料金で部屋を提供し、多くの被災母子が一時避難的に共同生活を送っている。施設を退去後は地域内に定住する被災者も多く、地域住民と協力して無(減)農薬の野菜を宅配したり、合唱団を結成して県内の被災者に呼びかけた定期的な合唱ミーティングを開くなどの活動を続けている。

県外から移住してくる被災者のためリフォームを手伝う
「子ども未来・愛の
ネットワーク」代表の大塚愛さん=岡山市北区建部町
地域住民と一緒になって「おかやま昭和暮らしプロジェクト」の一環で
実施
したピクニックデモ=総社市の吉備路

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