2015年11月20日 毎日新聞
http://mainichi.jp/area/nagano/news/20151120ddlk20040082000c.html
◇震災に関わってない人も見て
東京電力福島第1原発事故で、福島県大熊町から白馬村に避難している木村紀夫さん(50)が、東日本大震災の津波にさらわれた 娘を捜す姿を撮影した写真展「津波に奪われた命、そして今から未来へ」が、大町市で開かれている。父と妻は津波の犠牲になり、次女汐凪(ゆうな)さん(震 災当時7歳)は行方不明のまま。展示作はフォトジャーナリストが撮影したもので、木村さんは「震災に関わったことがない人や若い人に見てほしい」と願う。 21日まで。【巽賢司】
◇泥まみれの体操服、当時のまま残る机…
がれきの中で見つかり泥にまみれた汐凪さんの体操服。今春、汐凪さんが通っていた小学校に震災後、初めて入った木村さん。教室で、当時のまま残る汐凪さんの机を見つめる木村さんの目は潤んでいる。写真展には、こうした場面などを写した約60点が並ぶ。
2011年3月11日、妻深雪さん(当時37歳)は震災直後に帰宅しようとして津波に遭ったとみられ、約40キロ沖で遺体が見つかった。近所で遊んでいた汐凪さんを迎えに行った父王太朗(わたろう)さん(同77歳)は、自宅付近で亡くなっていた。
大熊町は今、木村さんの自宅があった場所も含め、人が住んでいた地域の大半が帰還のめどが立たない帰還困難区域に指定されている。現在、立ち入れる回数は年間最大30回。1回で最長5時間に制限されている。
木村さんは11年夏、白馬村に避難し、今は中学3年の長女(14)と2人暮らし。毎月1、2回は大熊町に戻り汐凪さんの捜索を続ける。「震災直後に汐凪を捜索できなかった後ろめたさが今も消えない」と言う。
震災翌日の3月12日、原発20キロ圏外への避難を指示されたため、地元を離れた。この時点では法による立ち入り規制はなく、自宅周辺での捜索を できなくもなかった。だが、長女らを放射能から守ることを優先させた。「この判断は正しかったと思う。言い訳みたいだけど。でも本当は入りたかった。あの とき父はまだ生きていたかもしれない。汐凪が見つかっていたかもしれない……」
最近、「汐凪が人との巡り合わせをつくってくれている」と思うようになった。震災後、多くの人と知り合った。自分たちのために曲を作ってくれる人 や、捜索に協力してくれる人。汐凪さんの名前を付ける時、夏の終わりの海のような穏やかな子に、との願いを「凪」の字に込めた。「ひまわり」のような明る い子だった。その子は今、「自分を導いてくれる『光』なのかもしれない」と感じる。
今回の写真展でも、来場者との新しいつながりを期待している。被災して痛感する防災教育の重要性、「経済的な豊かさ」を求める社会の限界、持続可能な社会へ転換する必要性。そんな思いを伝えられたら、と考えている。
会場はJR大町駅近くの「大町リノプロ」(大町市大町)。入場無料。20日は午後1〜7時、21日は午前10時〜午後5時。21日午後2時、木村さんらが震災について語るトークイベントがある。
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