2015/11/11

<私の復興>家族の日常選び取る

2015年11月11日 河北新報
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201511/20151111_63023.html

◎震災4年8カ月~自主避難先の山形から再び福島へ 郡山市・中村美紀さん

自宅で4人の子どもたちとくつろぐ美紀さん(右から2人目)。
ママの膝の上で遊ぶ天晴ちゃんを3人の娘がかわいがる=郡山市


東京電力福島第1原発事故の放射能汚染から子どもを守ろうと、原発事故のあった2011年の夏に自ら選択した自主避難生活。夫を福島市に残し、娘3人と母子4人で暮らした山形市での2年7カ月を経て、再び福島に帰る選択をやはり自分で決めた。

14年3月18日、自主避難先のアパートを引き払い、自宅のある福島県郡山市に戻った。引っ越しを翌日に控えた17日深夜、交流サイト「フェイスブック」に「ありがとう、やまがたのみんなへ」と題し避難生活について長文で思いをつづった。

<子どもを守るって、どういうことなんだろう。避難できたからそこで終わるわけでない>
<どの選択をしても、みんな必死に何が自分たち家族にとっての幸せかを考え続けている気がします>…

郡山市での暮らしを再開してちょうど1年半がたったことし9月中旬、夕暮れ時が近づく自宅のリビングルームは、美紀さんの子どもたちが思い思いの時を楽しく過ごしていた。

郡山に戻って間もなく生まれた長男の天晴(たかはる)ちゃん(1)がよちよち歩きしている。3人の娘が温かなまなざしを注ぐ。

娘3人は、11年夏に母子避難した時は3女が現在の天晴ちゃんぐらいの幼児だった。長女は当時小学校3年生。4年8カ月がたち今は中学1年生だ。みんな成長しお姉ちゃんになった。

美紀さんは山形で山形避難者母の会の代表を務めた。自主避難者家族が向き合う難題を先頭に立って世に問い掛けてきた。闘いながら、思いは福島と山形を行き来した。

山形で天晴ちゃんを身ごもって少ししたころ、郡山に戻ろうと決断した。放射線量はだいぶ下がったとはいえ心配が消えたわけでもない。「ちゅうちょした自分もいた」と打ち明ける。

あえて福島に帰り第4子を産むという選択。決断の大きな理由を語る。「ここ福島で恋愛して結婚して、安心して産み育てていけるということを自分の実践で娘たちに見せたい」

山形で出会った多くの人に支えられ山形を大好きになったが、それでも自分はあくまでも福島人だとの思いもあった。

いろいろなことに折り合いをつけた。家族の「日常」を選び取った。

自主避難していたころ、仕事が休みの日に山形にやって来るパパが福島に戻る時、娘たちは泣いた。今もパパは福島市での単身赴任生活だが、赴任先に戻る時は笑顔で送り出す。そうした日々の家族の光景に、日常が戻ってきたことのありがたさを実感している。(松田博英)

●私の復興度・・・8割方
不安には向き合い尽くした。自ら避難を選択するほどだったわけだけれど、時がたち、原発事故から間もない時期に考えたよりはだいぶ良くなっている。日々の暮らしの中で非日常のウエートがかなり少なくなった。私の幸せの基本は「家」。アイデンティティーを育ててくれた所の大切さを感じる。私個人としては日常が8割方戻った。

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