2015/11/18

(核リポート)特別編:ヒバクシャ3万人、健康被害追う

2015年11月18日 朝日新聞
http://digital.asahi.com/articles/ASHCF74FXHCFPTIL01R.html?rm=2533

◆すべては原爆から始まった:8旧ソ連の原爆第1号(1949年)のプルトニウムを生んだ核施設マヤークでは、1950年前後からテチャ川へ放射性物質が垂れ流され、57年には放射性廃液タンクが爆発する事故も起きた。それらがもたらした核被害は、周辺住民の健康にどんな影響を与えているのか。被災者たちを追跡調査してきたロシア連邦医学生物庁傘下の機関が、チェリャビンスク市内にある。ウラル放射線医学研究センターだ。「テチャ川流域住民の慢性放射線症候群」の著者でもある同センター所長で医学博士のアレクサンドル・アクレエフ氏(57)に、原爆観も含めて聞いた。

マヤーク核被害の健康調査を重ねている
アレクサンドル・アクレエフ所長=副島英樹撮影

ー被爆70年の節目に、核といのちをテーマにマヤークへ取材に来ました。

「私は日本に何度も行ったことがあり、いかに日本人が核の問題に向き合っているかを知っている。広島・
長崎への原爆投下は多くの悲しみを人々にもたらした。我々のケースが示しているのは、すでに核兵器の製造段階から、核施設の職員だけでなく、施設周辺の住民の健康にまで極めて深刻な被害を及ぼすということだ」

  

――住民の健康調査の規模はどれほどになりますか。

「テチャ川流域で暮らしていた約3万人とその子孫5万人を追跡調査している。1957年のキシュティム爆発事故(ウラルの核惨事)でも、2万1千人が被曝(ひばく)し、その子孫の2万1千人も含めて観察している。対象は3世代にわたっている。我々のセンターはこれら二つのグループの被災者を支援し、東ウラルの放射線状況を調べるために設立された。このような長期被曝の結果を追跡しなければならない」
「一度に強く被爆した広島、長崎と違って、我々のケースは数十年にわたる被曝であり、低線量の慢性的なものだ。これは現代医学にとっては重要だ。なぜなら、このような長期被曝は、
チェルノブイリや福島のような事故による住民被曝にも参考になるからだ」
「住民や被曝環境下に長期間いる労働者の放射線安全基準を得るには、自ら被曝した結果と、その子孫の遺伝的結果について、広島・長崎で得られたデータだけに基づかずにリスク評価をすることが重要になる」


――直接被爆と慢性的な被曝との間にはどんな差があるのでしょうか。

動物実験に基づいた現代の放射線生物学の観点からすれば、広島や長崎と同じ線量を長期間慢性的に浴びた場合、がんや白血病になる可能性はおそらく数倍低いだろうということが示されている。ただ、これはあくまで動物実験に基づくものだ」
「私たちはこうした調査を、広島の放射線影響研究所とともに進めてきた。広島・長崎と南ウラルとのリスク比較は非常に重要だ。日本では1945年から、ロシアでは1950年から続く長期の観察の結果が示したことは何か。それは、
悪性腫瘍のリスクはほぼ同じだということだ。広島・長崎のような原爆投下後の被爆と、テチャ川流域のような放射性物質の垂れ流しによる長期的・慢性的な被曝との間では、がん発生のリスクはほぼ同じだと評価する傾向にある」

――両者の間で被曝の違いは何ですか。

「テチャ川の場合は複合的な被曝だ。水や食料から器官に核種が入って内部被曝をもたらす。
ストロンチウム90とセシウム137だ。この地域では1960年までは、ジャガイモや穀類、魚、水鳥の肉などの食料から取り込まれた。60年代以降になると、とりわけストロンチウムは牛乳を通して体内に取り込まれた。牛が食べる川辺の草が汚染されていたからだ。広島や長崎のような外部からのガンマ線・中性子線の被曝とは違って、ストロンチウムカルシウムのように骨の組織に蓄積され、非常に大きな線量が骨髄にたまる。最大で9グレイにも達した」
「それ故、テチャ川流域の住民には白血症の発症率が高い。ウラルの核惨事(57年)の爆発事故では、また状況は別だ」

――それは生殖機能にも影響しますか。

「テチャ川の流域住民はすでに移住しているので、
ストロンチウムによる内部被曝はもうない。そもそもストロンチウムは生殖腺には影響しない。より危険なのはガンマ線の外部被曝だ。親の生殖腺に影響するし、胎児にも作用する」

――住民の移転は遅すぎたのですか。

「移転の開始は遅すぎた。4、5年で住民は内部も外部も被曝した。
ストロンチウムは骨の組織からは出ずに崩壊する。半減期は30年。たとえ汚染地帯を離れたとしても、ストロンチウムが入り込んだ骨髄は今も被曝が続いている。移住はすべての問題を解決したわけではない。住民たちへの念入りな医学的観察が欠かせない」


――このセンターが設立された経緯は。

「テチャ川流域住民への観察が始まったのは、まだこのセンターが設立される前の51年だった。マヤーク職員のための病院の医師らが派遣され、流域住民を調べたところ、慢性放射線症候群の症状が見つかった。そこでモスクワから生物物理学と
職業病の研究所からも専門家が参加して調査した結果、慢性放射線症候群が時とともに増える傾向が浮かび上がった。このため、まずは55年に住民を追跡調査する特別診療所ができ、これをベースにこのセンターが62年に開設された。第一義的には、マヤーク職員と閉鎖都市の住民らの健康管理に携わる施設だ」


 


――ヒバクシャとして登録されている人はどれぐらいいますか。

「健康に影響が出るかもしれないほどの被曝をしたの住民はテチャ川流域で3万人ほどと考えている。テチャ川はイセチ川に至り、トボル川に至り、オピ川に至り、そしてカラ海に至るが、最も
被曝量が大きいのはテチャ川流域だ」
「テチャ川へ放射性廃液が垂れ流されていたころ、流域には2万3千人ほどが暮らしていた。50~60年の間にはさらに7千人ほどがやってきた。この間、テチャ川沿いに住んでいた人は日本の基準に照らして『ヒバクシャ』としていいだろう。ある人は早い時期に健康が変調し、病人として登録している。
悪性腫瘍をはじめ、白血症や心臓血管病、高血圧症などだ。57年の爆発事故では、高線量被曝したのは約1万8千人。全体では約5万人の健康の変化を念入りに追跡している」

――健康被害とはどんなものですか。


「テチャ川の上流域では被曝量は高く、特に51年秋には、半減期の長い核種の約60%が垂れ流され、慢性放射線症候群とみられる健康被害が確認された。それはどんなものか。肉体的にも精神的にも弱くなり、以前は簡単にできた仕事もうまくできなくなった。子どもは学習能力が下がり、記憶力が減退し、よく眠れなくなった。中枢神経の不規則な働きによる多臓器不全が多く見られ、それは吐き気や腹痛、便通障害などだ。外形的な変化は見られないことが、中枢神経システムの障害であることと関係している。子どもには肥満や甲状腺障害、動脈血圧の低下が見られた」
「血液の変化もある。
白血球血小板の減少だ。最も深刻なのは、これらの変化が骨髄の変化によって起きた場合だ」

――慢性放射線症候群とは。
「しきい線量は0・7~1グレイ。これを超えると慢性放射線症候群に至る。この病はそれほど早くは進行しない。潜伏期間は数年。被曝が強いほど潜伏期間は短い」
「テチャ川流域の住民で約940人が慢性放射線症候群と診断され、今も追跡調査を続けている。その行き着く結果は、まずは
悪性腫瘍だ。発症や死亡のリスクは高い」

――リスクはどれぐらい高まりますか。

「テチャ川流域の場合、がんのリスクは2%上がる。すなわち、がんが100症例あるとすると、そのうち2例は
放射能の影響だと登録できるということだ。2%とはいえ、広島や長崎と同様、極めて高い数字だ」
「白血症の場合はもっと高い。最新の我々のデータでは、テチャ川流域の白血症の2例に一つが
放射能に由来している」

――それは次世代に遺伝しますか。

「住民はそれを心配しているが、第1世代の子孫への深刻な影響は私たちは見つけていない。住民の調査を続けているが、がんや白血症の発症、それによる死亡のリスクは高くなってはいない」

――マヤークの被害はもうないですか。

「現在は安全策を施し、廃棄物も最小限にしている。現在の病気とは関係していない」

――なぜこんな被害がもたらされたのでしょうか。

「すべては50年代、すなわち
冷戦期の結果だ。当時はプルトニウムを抽出する際に放射性廃棄物を適切に処理することなど思いも寄らなかった」
「我々は今、21世紀に生きている。もうソ連は別の国だ。より閉鎖的で、より体制的だった。核プロジェクトはそのような社会でこそ存在しやすい。(ソ連原爆の父)クルチャトフはチェリャビンスク州で生まれた。ここには冷却用水が豊富にある。しかし、テチャ川はあまりに小さく海からも遠い。原爆が一つだけだったら、このような汚染もなかっただろう。マヤークはテチャ川が耐えられないほど大量の
放射性物質を垂れ流した」

――人類は原爆を生んでしまいました。

「ただ、最初に原爆をつくったのは我々ではない。米国だ。ソ連の都市を核攻撃する計画もあった。ソ連はそれに対応し、潜在力を発揮する必要があった。これは反撃だった」

――被爆地の広島・長崎には何度も行かれています。

「10回ほど訪れた。広島と長崎の悲劇とは魂でつながっている。私はいつも驚く。日本人は犠牲者の記憶をしっかり引き継いでいるからだ。過去の出来事にこれほど真剣に向き合うのは世界でもまれだろう。これはむごい悲劇だ。軍人でもない、子どもや老人たちが犠牲になった。戦争はもう終わろうとしていた時期なのに、理解できない。米国はソ連に力を見せつけるために原爆を落とした。パールハーバー(
真珠湾攻撃)への復讐(ふくしゅう)でもあったのだろう」

――核の被害は絶えません。

「マヤークの事故の後、多くの年を重ねたが、
チェルノブイリで、日本の福島で、すべてが繰り返されてしまった。教訓を生かそうとしたが、適切に対応してきたと果たして言えるだろうか」

(今後もインタビュー・シリーズを続けます)
     ◇
核と人類取材センター・副島英樹
そえじま・ひでき 1962年生まれ。広島支局、大阪社会部などを経て2008年9月から13年3月までモスクワ支局長。米ロの
核軍縮交渉などを取材した。プーチン政権誕生期の99~01年にもモスクワ支局で勤務し、チェルノブイリ原発のその後も取材。13年4月から核と人類取材センター事務局長。(核と人類取材センター・副島英樹)

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