2016/03/19

(核の神話:20)福島から避難 ママたちの悲痛な叫び

(横浜弁護士会が開催した集会のまとめです。避難者の声も、大阪市立大の教授の分析も、現状がよく伝わる内容になっています。鼻血問題にも、子ども・被災者支援法にも触れています。長いですが、ぜひお読みください。  子ども全国ネット)

2016年3月19日 朝日新聞
http://www.asahi.com/articles/ASJ3K3D6RJ3KPTIL00S.html

福島から母子避難した人たちが日本社会の中で見捨てられている――。映画監督の鎌仲ひとみさんがそう指摘した。実際、国や福島県は避難者の帰還を促し、避難指示区域外から避難した「自主避難者」に対する避難先での住宅無償提供を来年3月で打ち切る方針を決めた。東京電力福島第一原発事故による放射能から子どもを守ろうと、県外に母子避難している鹿目(かのめ)久美さんら「避難ママ」たちの切実な声を聞くとともに、現地調査・研究をしている大阪市立大の除本理史(よけもとまさふみ)教授(環境政策論)に現状分析をしてもらった。横浜弁護士会が3月10日に市内で開催した集会を再現する。 
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■鹿目久美さん(福島県大玉村から神奈川県に避難)



2011年3月11日の原発事故のあと、福島県大玉村の自宅から、主人と当時4歳だった娘を連れて神奈川県相模原市の私の実家に避難しました。娘が幼稚園に入園する年でした。3月にあんな事故があったのに、4月には普通に入園式があったんですね。仕事で主人は先に福島に戻り、私と娘は1カ月ほど実家で過ごしたあとで、入園式には娘を出してあげたいと思って戻りました。

再度、実家に避難したいとは、なかなか言えなくなってしまいました。福島市と郡山市の間にある大玉村は、人口8千人くらいの村で、避難した人は本当に少なかったんです。当時は放射能がどれだけ体に影響があるのかなんて分かりませんでしたし、そういう村の空気を感じて、私は言い出せなくなってしまいました。

本当は神奈川の実家にとんぼがえりしたかったんです。主人に「また避難したいんだけど」ってようやく言えた時に、「じゃあ、おれはどうするんだよ」っていう言葉が返ってきました。家族が離れてまで避難する理由があるのか、決定的な証拠を出せるような知識はありませんでした。結局、最も放射能汚染の強かった夏休みまでの3カ月を福島で生活してしまいました。

娘が幼稚園に行くときは、なるべく肌を出さない服を着せて、マスクをさせました。バスを待っているときに、土とか葉っぱとかを触ると、子ども同士で「放射能がついてるから、触っちゃいけないんだよー」って注意しあっていたんですね。事故前はお友達のように土や葉っぱで遊んでいたのに、それを触らないようにと子ども同士で注意しあっているのは、見ていてつらかったです。

そうこうしているうちに、娘が大量の鼻血を出すようになりました。噴出するような鼻血だったり、30分ぐらい止まらなかったり、固まりが出たり。風邪の症状はないのに発熱が続いたり、それまでにはなかった皮膚疾患が出たり。うちの娘だけだったら気のせいかなと思うんですけど、まわりのお母さんたちの子どもたちにも、同じような症状があるって言うんですね。だんだん私は福島で子育てをする自信がなくなりました。

外で遊べないストレスも強かったんで、車を2~3時間運転して山形県米沢市までわざわざ行って、娘に外遊びをさせました。福島から山形に入って、やっと車の窓を開けて深呼吸をするような状態でした。山形に入って私が車の窓を開けたら、寝ていた娘が起きてパニック状態になったんです。「ママ、なんで窓あけるの! 放射能あるのに!」って泣き叫ぶ。

その年の夏休みは神奈川の実家で過ごしました。休みが終わりに近づいて福島に戻ろうとすると、娘が「放射能が怖いから、福島に帰りたくない」って言ってくれたんですね。その一言で私は避難を続ける決断をして、今に至っています。あの一言がなかったら、どうしていたか分かりません。彼女にはとても感謝しています。それでも、この先、彼女の体になにかあったら、私はどう責任をとればいいのでしょうか。自分の身に何があったかを子どもたちが知ったときに、大人は何を言えるんだろう。どうやって説明したらいいんだろう。

5年前からずっと思っていることは、だれも責任をとってくれていない、本当の被害がどうだったのかが出てこない。それが出てこないうちに、復興とかいう。震災自体がまだ終わってないし、次のステップのスタートにも立てていないのにって思います。子どもに説明できるものを、ちゃんと出して下さい。そして、その責任者がちゃんと謝ってほしい。子どもには「人の話をちゃんと聞きなさい」って言ってるのに、国会ではヤジを飛ばしている大人たちがいる。「悪いことをしたら謝りなさい」って言ってるのに、悪いことをした人は謝らない。

うちの娘、まだ小学3年生ですけど、自分の身に起きたことを最近は少し語ります。彼女は「福島で大変だったことを伝えたい、みんなにわかってほしい」って言うんです。「かわいそうだと思ってほしいんじゃなくて、だれかが自分と同じようなめにあったら、私の話を参考にしてほしい」って、小学3年生の娘が言うんです。その声をちゃんと拾ってほしいんです。

でも、私たちは政府の「避難指示区域」の外からの避難者。自分の判断で出てきたので、そのことを「つらい」とか「苦しい」とか、大きな声で言えなくなっている。自分の居場所がない。これがいつまで続くのかな。娘は「二十歳までは福島に帰らない」って言ってます。
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■Aさん(福島県いわき市から埼玉県に避難)

避難先で母子3人で生活しています。残念ながら、「帰ってこい」という夫とは「原発離婚」になってしまいました。私も一時避難が終わったら帰れるかなって思っていました。でも、帰れない。

いわき市は空間線量しか測定してなくて、土壌がどれくらい汚染されているのか調べていない。いわきに帰ったら、地元産品の給食を子どもに食べさせなきゃいけないんですね。私はそれを受け入れられなかった。

来年の3月には避難先の住宅支援が打ち切られます。どうなっちゃうのかなと思いながら、毎日過ごしています。自分のせいだったらしょうがないけど、私、なんにも悪くないのに、なんで借家を追い出されるんだろう。避難したことによって、子どもの体の健康は取り戻せたかもしれないけど、子どもの心の中に残した傷は深くて見えない。

とにかく、謝ってもらいたい。反省してるなら、原発を再稼働なんてさせないだろうし、(東京電力は)黒字経営してるのに賠償を渋ったり、ありえないと思うんですね。埼玉で避難者らが起こした訴訟にも参加していますけど、賠償うんぬんじゃなくって、怒りをぶつけたかったんですよ。私たち、つらい思いをしてきたんだよって。事故がなきゃ、こんなことにならなかったんだよって。一人ひとりの苦しみを聞いて、1円もいらないから、ちゃんと謝ってください。

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■Bさん(福島県から関東地方へ避難)

2011年3月12日にうちの家族と、実家の両親と弟夫婦とともに逃げたんですね。原発事故のニュースを知った親類から「とにかく逃げろ」って電話で言われて。大渋滞の中、飯舘村に着いて、ワンセグでニュースを見たら、枝野官房長官が「ただちに健康に影響はない」。なんなの、この人の話し方は、と思ったんです。寒い中、車から出て、私と弟の押し問答が始まってしまった。弟は「ただちに(影響が)ないんだから、いい」っていうわけです。私は「ただちにないって言ったって、いつでも(影響が出る可能性は)あるってことだから、のんきに構えててどうすんの」って。その時の風の冷たさも、よく覚えています。

私たちは、原発の事故によって、こうやって避難してるわけですよね。したくて避難してるわけじゃないんですよ。元通りの福島だったら、明日にだって帰っていいんです。だけど、それはもうかなわないから、歯を食いしばって、がんばって生きてるわけですよね。そこを分かってくれようとしない国。そして、東電は賠償を渋って、これは出さない、あれは出さないの一点張り。自殺する人も増えてますけど、私も自殺を考えました。今も精神科に通って、治療を続けています。

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■Cさん(福島県いわき市から東京都に避難)

私にとってつらいのは、説明しなきゃならないことです。福島から東京に避難していることが知られて、「福島のどこから?」って聞かれて、「いわき市」って答えると、「いわきって、東京と(汚染レベルが)変わらないんでしょう。なんで、わざわざ来てるの?」って責めるような目で見られたり、「いつ帰るの?」って東京の人から言われたりする。避難しているお母さんたちは、どんどんくじけてしまうんです。

空間線量って地表から高さ1メートルの測定で決めるんですよ。それが本当にくやしい。一番汚れているのは、土なんです。東京や横浜と違って、福島は土の場所が多くて、冬になると乾燥して土煙が舞い上がります。それを吸い込んでしまうのは、1メートルよりも身長の低い子どもたちですよね。大人はまだ比較的きれいな空気が吸えるのに、子どもたち、ましてや赤ちゃんは本当に地面に近いところにいる。どうして1メートルなんだろう。

小・中学校の子どもたちも、そうじをします。2011年4月の始業式の日、子どもたちは大掃除、大除染をさせられた。放射性物質まみれのほこりを吸い込んでしまうのに。いわき市内の家庭の掃除機の中のほこりを調べてもらったら、事故から5年たっても3千ベクレルとか5千ベクレルとか、すごい数字が出ます。赤ちゃんがハイハイしたり、子どもたちが寝転がったりしているカーペットのほこりが、そんな数字なんです。それでも、国からは避難しろって指示されないし、県内では汚染度が低いとされているんです。

私たちが避難所で見てきたことをいうと、子どもたちの鼻血は本当にひどかった。なのに、当時の環境大臣までが出てきて「うそをつくな。鼻血なんて出るはずがない」と言われた。ものすごく傷つきました。自分が見てきたことを話したら、うそつきにされてしまう。「鼻血が出た」って言うだけで、いじめられる。声を出すのが怖くなりました。「出るはずない」って、その場にいなかった人がどうして言えるんだろう。

夜中に避難所で「鼻血が止まらないから」って、お母さんがバスタオルで子どもの顔を押さえているんですよ。でもね、病院に行くと「鼻血で死ぬ子はいない」って言われてしまう。今でもおそらく「鼻血が出た」なんてネットに書き込むと、それだけでいじめられてしまうんですよね。どうして、こうなってしまうのか。国が先頭に立って、そういう方針でいるから、私たちの口をふさぐようにしているからかなって思います。

来年3月で住宅支援がなくなると、たくさんの親子が路頭に迷ってしまう。それを避けたいと思って署名活動をしたり、復興庁や内閣府の防災担当の方とかとお話ししたりしてるんですが、私たちの言葉を聞いてくれない。

政府交渉に一緒に来てくれていた(避難者の)おばあちゃんが、最近来なくなりました。甲状腺がんなんです。まわりでだんだん具合が悪くなる人が増えていて、がんになったり、突然亡くなったり。そういうなかでも、声をあげ続けている。せめて避難先から追い出さないでくださいって訴えているんです。

私たちは、ほんとうに、この国の国民なんでしょうか。

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■除本理史・大阪市立大教授「責任とらぬ、東電のからくり」

東京電力はなぜ責任をとらないのか。責任をとらないのに、なぜ賠償を払っているのか。これには「からくり」がある。原子力損害の賠償に関する法律によると、東電は「無過失責任」を負っている。過失があっても、その証明を必要としない。東電が「相当因果関係あり」と認めたものには賠償を払う。

被害者側が東電の過失を証明しなくてもいいので、被害者を保護する機能を持っていると良く言われる。だが、東電はこれを盾にとって、裁判で「津波対策をさぼってたんじゃないか」と問われると、「そんな話は関係ない。過失があってもなくても、同じだけ賠償を払いますから」という。「無過失責任」の制度は過失や責任の追及を遮断する。結果、被害者にとりあえず賠償を払うけれども、過失の有無はあいまいになっていく。だから、謝らない。

国の避難指示は年間20ミリシーベルトという値を目安に出されているが、事故前の(一般人の)被曝(ひばく)限度は年間1ミリシーベルトだった。「放射線管理区域」は5・2ミリシーベルト。18歳未満は働いてはならないなど、厳しく管理されている。そういう線量でも避難指示が出ない。避難を選択した人たちは、お子さんの体に何らかの異常が出たことを重視しているが、そうした異常が起こらなかった人たちもいて、被曝をめぐる温度差が生じている。結果的に、「自主避難」を選択した人たちが肩身の狭い思いをし続けている。

「自主避難者」が事故から1年かけて増えていって、2012年6月のピーク時の避難者は16万人を超えていた。今、福島県は「避難者が10万人を切った」と言っているが、どこまで正しいかは分からない。

現在、「帰還政策」を軸にして復興が進んでいるとすると、その影響は不均等な現れ方をしている。地域ごと、業種ごと、個人それぞれの条件によって、バラバラに影響が表れていて、それに乗っかれる人もいれば、乗っかれない人もいる。福島では除染という形で大規模な公共事業が行われている。そうした除染やインフラ復旧中心の復興政策に乗っかって再建をしていける人はいいけど、そうじゃない人は生活再建も厳しい。建設業や飲食業など、復興事業の「恩恵」があるところは比較的再開率が高いが、小売業のように顔見知りの住民を相手に商圏が成立していたような業種は再開率が低い、というような不均等性がある。

さらに、原発災害の特殊性として、放射能汚染の問題がある。汚染は、避難指示区域のような線引きで切れるものではない。汚染実態と賠償格差が合っていないので、被害者の不満が高まり、分断が生じる。

医療や教育のニーズも避難や帰還の選択と深く関係している。住民が避難する、しない、あるいは戻る、戻らないの意思決定は、単純に20ミリシーベルトとか1ミリシーベルトとかの空間線量の数字では切れない。

政府は100ミリシーベルト未満のいわゆる「低線量被曝」では健康被害があるかどうかの科学的知見がまだ確立していないという。だが、確立していないのであれば、それを心配する人もいれば、心配しない人もいるはず。「確立していない」ということが、なんとなく「被害がない」というふうに、意識的にか無意識的にか、境界がなくなっているようにみえる。

政府は「20ミリシーベルト未満だったら戻れますよ」という。「でも、20ミリって、通常時の被曝限度の1ミリよりすごく大きい値ですよね」って言っても、「原発事故が起きてしまったんだから、事故後の対応としてそうなります」という話になっている。

これに対して「私はそうは思わない。子どもが鼻血を出しました。それを危惧しています」という人がいる時に、本来であれば「子ども・被災者支援法」の理念にうたわれているように、帰還する人も、居住を選択する人も、避難を選択する人も、等しく意思決定を尊重していく。社会がそれを支援していくという立場が必要だと思う。

しかし、ここで出てくるキーワードが「風評被害」対策で、実は復興政策の重要な柱となっている。基準値内で流通しているが放射能がゼロでない食品を敬遠したり、空間線量が避難指示区域ほどではない土地を訪れたりするのをためらったりするのは、消費者である一般国民。そういう人たちに不安を与えないように、低線量の被曝についての不安をあまり口にしないようにしましょうという雰囲気が福島にはある。

それが端的に出てしまったのが(2014年の)漫画「美味しんぼ」をめぐる騒動。井戸川克隆・前双葉町長などが登場し、被曝による健康影響への不安を述べていることに対して、当時の(石原伸晃)環境大臣までが出てきて火消しをした。この作品の表現の当否はともかく、風評被害対策は低線量被曝に不安を感じている人たちの発言を押さえ込む機能を客観的には果たしている。福島県で「愛する故郷のために」という人もいて、主観的な意図はいろいろあるだろう。しかし、客観的な機能としては、被害を訴えにくくするという役割を果たしている。

住民の間では、賠償格差が作用し、帰還と避難と意思決定が割れて、そこに風評被害というファクターが加わる。すると分断からさらに進んで、ものが言えなくなり、閉塞(へいそく)状況に陥っていく。風評被害対策を一生懸命にやると、被害は風化する。

詰まるところ、福島の復興政策は被害の実態に合っていない。それが住民の間に複雑な分断をもたらしている。今、起きているのは、復興政策による二次的な被害、「復興災害の福島バージョン」ではないか。

昨年6月、政府は「福島復興指針」を改定して、「賠償収束宣言」とも言うようなものを出した。帰還困難区域以外は2017年3月までに避難指示を解除して賠償を打ち切っていく。政府がその先に見据えているのは、(2020年の)東京オリンピックだろう。

しかし、事故で一番多く飛散した放射性物質のセシウム137の半減期は30年。福島第一原発の最終的な廃炉まで少なくとも30~40年はかかる。オリンピックで都合よく復興プロセスが完了するわけがない。復興を進めていくにしても、被害が残存しているのであれば、その回復措置や賠償は必要になる。

昨年6月には福島県も仮設住宅を打ち切っていく方針を発表した。政府の動きと軌を一にしている。だが本来は、それぞれの事情を尊重して支援していくという子ども・被災者支援法の理念に沿って、具体的な施策をきちんと出していくことこそが求められる。

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核と人類取材センター・田井中雅人 たいなか・まさと 中東アフリカ総局(カイロ)、国際報道部デスク、米ハーバード大客員研究員(フルブライト・ジャーナリスト)などを経て、核と人類取材センター記者。 https://twitter.com/tainaka_m (核と人類取材センター・田井中雅人)

福島県外に子どもと避難している母親が作ったスライド 





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