2015/12/20

私たちは忘れない 週のはじめに考える

2015年12月20日 中日新聞
http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2015122002000104.html

忘れないでください。忘れることで人は過ちを繰り返す-。行く年の煩悩を打ち消す百八の鐘に耳を澄ませば、忘却の風に抗(あらが)う、その声も届くはず。

名古屋市を中心に活動するタレントの矢野きよ実さんは毎朝四時半、矢野さんが十八歳の時に亡くなった、父親の遺影にほうじ茶をお供えし、レギュラー番組を持つ市内のラジオ局に出掛けていくのが日課です。

「お父さん、行ってきます」とつぶやくたびに、父親の顔や声と一緒に、東北の被災地で出会った人の表情、その人たちの声なき声が、流星雨のように頭の中を飛び交います。

書家でもある矢野さんは、被災地で「書きましょ」という活動を続けています。

3・11の衝撃で、被災者、とりわけ子どもたちの心の奥に閉じ込められてしまった言葉たち、声にできない悲鳴や叫びを、文字にして吐き出してもらいたい-。震災の年の夏からずっと、筆やすずりを携えて東北各地を回っています。

積もり積もった何千枚もの筆の跡、降り注ぐ言葉の雨を、矢野さん自身、まだ整理しきれない。忘れようにも忘れられません。

毎月十一日、矢野さんは番組の中に被災地へのメッセージを織り込むことにしています。

今月は、三重県桑名市に住む六十一歳の女性が寄せたはがきを読み上げた。

<二〇一〇年十二月、私は主人の実家の一人息子に、何か買ってあげたくて、仕方のない気持ちになり、いつになく必死でクリスマスプレゼント、黒の革のジャンパーを選び、おくりました。来年も着られるよう、大きめのをね。とても喜んでくれて毎日着ていたそうです。その三カ月後、それを着てその子はつなみにのまれました。八歳でした…>

「大川小学校」の名前を聞くだけで涙が込み上げた。三カ月がかりでしたためたとも、はがきの主は書いている。
負けてなんかやらねえ

「福島は特別…」と矢野さんも感じています。

六月、青森市内で開いた「書きましょ」。浪江、双葉、郡山、そして南相馬からの避難家族、約三十人が集まった。

「三月十一日 もとの家族にもどりたい」と書いたおばあちゃん。「鮭(さけ)といっしょに浪江にかえろう」としたためた人もいた。

大きな紙に「くやしさ」と大書した十歳の女の子。

そして、この日福島から駆けつけて「負けてなんかやらねえよ」とつづったお父さん。

原発の解体現場で働くその人は「絶対に家族をふるさとに戻すから」と言い置いて、放射能の中へ、とんぼ返りしていった。

「復興」と書いた人は、いなかった。書き終わって、みんなで泣いた。

これが今なお、被災地の真実であり、本音なら、絶対に忘れるべきではない。忘れることは責任の放棄に等しくないか。

福島の叫びをかき消すように、列島各地で忘却の風吹きすさぶこのごろです。

関西電力が再稼働をめざす高浜原発の、大事故に備えた広域避難計画が今月策定されました。

原発三十キロ圏内の福井県と京都府から兵庫県や徳島県へ、約十八万人が避難します。

それだけの人が無事に移動できたとしても、避難先で待ち受ける過酷な暮らしの現実までは、シナリオにできません。

その四日前、日本とインドが原子力協定を結ぶことになり、インドへの核技術の供与が近く可能になりそうです。

自国の深手を癒やすすべさえないままに、原発輸出を「成長戦略」と呼んではばからない、一部の政治家や財界人の心のうちが知れません。
その痛み、受け止めたい

年忘れ。忘年会。忘れてしまいたいことや、どうにもやり切れないことがありすぎて、さかずきを傾ける機会も多い年の瀬です。しかし、どんなお酒にどれだけ酔っても、まだ忘れてはならないことがある。

♪忘れる事はたやすくても/痛みを今は受けとめていたい(吉田拓郎「僕の唄はサヨナラだけ」)…。

この歌を小さく口ずさみながら、行く年に、サヨナラを告げてみようと思っています。


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