http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2016022802000104.html
中国の旧正月、春節を祝うギョーザが食卓に並んだ。雪が舞った二月、福島市内の仮設住宅に左官業の中野敏信さん(72)=写真=を訪ねた。四畳半二間。薄いサッシ窓が曇る。中国東北部出身の妻(49)が「今日は寒いね」と首をすくめた。
二〇一七年三月までに、放射線量が高い「帰還困難区域」を除く全地域で避難指示の解除が計画されている。全町避難が続く浪江町も対象だが帰還希望者は少ない。
中野さんも、資材が置ける一戸建てを郷里に近い南相馬市やいわき市に考えているが、移住者が殺到し地価が跳ね上がった。手元資金では足りず、毎日早朝から約七十キロ離れた南相馬市の建設現場に通っていたが、三カ月前に足を痛めて働けなくなった。「原発事故がなければ、古い家でもそれなりに暮らせたのに。生活の立て直しはそんな簡単なものではねえな」
避難指示が解除されれば一年後には賠償も打ち切られる。解除の後も被ばくの影響を心配し、避難先に残る人々はすべて「自主避難者」となっていく。
福島県が自主避難を続ける人に行う住宅の無償提供は、一七年三月に打ち切られる予定だ。南相馬市から神奈川県に避難し、被害の完全賠償を求める集団訴訟で原告になった山田俊子さん(75)は言う。「私たちも本当は帰りたい。でも…。住まいという生活基盤を奪うのは、被ばくを避ける権利の侵害ではないでしょうか」
「避難の選択」は震災翌年に成立した子ども・被災者支援法で認められているが、政府は柱の政策を骨抜きにしようとする。
「俺たちはどこに向かっていくのか、羅針盤がほしい」と中野さんは言う。未曽有の原発災害を起こした責任は国と東電にある。その原点に返り、苦境に立つ避難者を切り捨てるようなことをせず、救済と、長くかかる生活再建を支えていくべきだ。 (佐藤直子)
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