2016/03/12

「あっという間」「ここで頑張る」 新潟への避難者3645人

2016年3月12日 産経新聞
http://www.sankei.com/region/news/160312/rgn1603120045-n1.html

東日本大震災の発生から11日で5年を迎え、県内でも各地で追悼の行事がこの日までに開かれ、東京電力柏崎刈羽原子力発電所(柏崎市、刈羽村)では11日、従業員約400人が地震の発生時刻に合わせて黙祷(もくとう)し、犠牲者の冥福を祈った。福島など県外から避難し、新潟県内で暮らす人は2月29日現在で3645人。古里への強い思いを抱きながら、新潟での定住を決意した家族も少なくない。仕事に意欲を燃やす人、人とのつながりに安らぎを覚える人、体力維持に努める高齢者…。それぞれが前を向き、歩みを進めている。

福島県からの避難者グループ「いきいき浜通りの会」は50~60代以上を中心に約20人。新潟市西区の市の避難者交流施設で毎週水曜に交流会を開き、絆を強めてきた。

東京電力福島第1原発事故の影響で全町避難が続く浪江町の堀内正弘さん(68)は、同市江南区の一戸住宅に移り、一時は娘夫婦や親戚を含めて10人の大所帯となった。だが高校受験を控える孫のためにと、妻のさと子さん(66)と2人の息子の4人で昨年8月、秋葉区に引っ越した。

堀内さんは古里で設備関連の会社に勤めていた。「浪江では川でよく鮎釣りをしていた。今は家にいる方が多い」という。最近はJR新津駅近くにある「夕映えの跨線橋(こせんきょう)」の階段を往復し、体力維持に努めている。

楢葉町から西区に移り住み、現在は1人暮らしという80代の女性は、交流施設で手のひらや腕をほぐされ「ここに来るのが楽しみ」と表情を和らげた。マッサージを施していたのは、南相馬市の杉由美子さん(47)。新潟市江南区のアパートで中学3年の次男と暮らし、5年間を「あっという間だった」と振り返る。

隣接する黒埼農村環境改善センターでは、NPO法人のスマイルサポート新潟が主催する追悼式が5日に開かれた。郡山市から自主避難している菅野正志さん(41)は、妻の裕子さん(40)と娘2人が先に新潟市東区に移り、菅野さんは転職して26年3月に家族と合流した。

「震災時はよちよち歩きだったのに」と目を細める菅野さんの隣で、次女の智那さん(6)が元気に歩き回る。智那さんは4月に小学1年、長女の那奈さん(12)は中学1年となる。福島県は避難指示区域外の自主避難者への住宅支援を3月末で打ち切る方針を打ち出している。「先は全く見えないが、子供の成長が支えです」と菅野さんは語る。

会場でアクセサリーをチャリティーで販売していた吉村恵美さん(29)は23年8月に須賀川市から新潟市秋葉区に子供と自主避難し、夫の智さん(40)は翌年6月に合流した。恵美さんは「見慣れない景色や聞き慣れない方言が食事も含め、やっとなじみのものに変わった」と、時の流れに思いをはせる。

福島県の実家では両親や兄が暮らしているが「この土地で頑張りたいという気持ちが強くなっている」。4月からは長男の蒼佑君(6)が小学1年となるのに合わせ、短時間のパートを長めの勤務に切り替え、新潟での暮らしを充実させていくつもりだ。

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