http://mainichi.jp/articles/20160312/ddl/k34/070/561000c
東日本大震災と東京電力福島第1原発事故で、福島県の避難者は5年を迎えた今も約10万人にのぼる。三浦さん姉妹も、発生当時は小学生で福島県いわき市に暮らしていた。
「窓が割れたり、電柱が曲がったり、建物も倒れて、景色ががらりと変わっていた。余震もすごくてその日の夜はなかなか眠れなかった」(莉衣菜さん)
避難を決めたのは、放射能による健康への影響を心配した姉妹の父親だ。事故2日後の3月13日午後に家族5人でいわき市を出発し、東京の知人宅に着いたのは14日未明。翌15日には、末の妹とともに姉妹3人で広島市の祖母宅に避難し、そのまま広島で暮らす。今は、父だけがいわき市に残り、母は広島といわきを行き来する。
いわき市の小学校時代は、マーチングバンドの強豪だった吹奏楽部に入り、全国大会にも出場していた2人。広島に避難した当初は希望を失い、落ち込んだ。だが、莉衣菜さんはマーチングバンドのある中学校に転校し、友菜さんも同じ中学に入ることができた。再び全国大会に出る目標ができ、前を向けるようになった。
「広島でマーチングバンドがまたできるようになったことで、性格が変わったと思う。昔より自分の意見をはっきり言えるようになった」(莉衣菜さん)
友菜さんは、小学6年の時、「幸せな世界」と題した作文を書いた。「私は、戦争をすると、する分だけ、世界から幸せが消えると思います。でも、戦争をしていなくても放射能のことを心配してくらさなければならない今の日本も決して平和とは言えないと思います」とし、一日も早く福島で家族5人で安心して暮らすという願いをつづった。
「平和と言えば、核兵器がないことばかり連想されるけれど、当たり前の生活ができていることが平和だと思う」(友菜さん)
姉妹の祖母は、曽祖母の胎内にいた時、広島の爆心地から1・2キロで被爆した。祖母は何度か自らの体験を話してくれた。平和学習などで原爆資料館を見学したり、被爆証言も聴いた。
「広島に来て、原爆の怖さをちゃんと知ることができ、勉強になった」(同)
「広島でいっぱい原爆について考えたし、考えも深くなった」(莉衣菜さん)
4月には莉衣菜さんは大学受験の勉強が本格化し、友菜さんも広島市内の高校への進学を決めた。「震災や事故がなかったら」と時には思うこともあるが、2人は将来を見据える。
「起きてしまったことはしょうがない。震災があったからこそ分かった友だちや家族の大切さ。つながりを大事にしたい」【加藤小夜】
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