2016/07/13

福島第一原発事故、拙速すぎた避難指示解除 政府と南相馬市の住民への対応は「約束違反」

2016年07月13日 東洋経済
http://toyokeizai.net/articles/-/126836

草刈り機を背負った男性が、沢沿いに広がる田んぼのあぜ道をきれいに刈り込んでいく。機械が発するけたたましいうなり声に、あたりの静寂がかき消される。

「ここへ来ていると落ち着くんだ。避難先にいても体がなまってしまうからな」

コメ農家の松倉憲三さん(69歳)が、機械を止めて額の汗をぬぐった。東京電力福島第一原発事故の取材で知り合った松倉さんとは3年ぶりの再会だが、元気な姿は今も変わらない。

だが、「今回の避難指示の解除をどう受け止めていますか」と質問を向けたとたんに、松倉さんの表情が曇った。

「俺の場合は何一ついいことはないな。解除だけされても、生活が成り立たないんだもの」


「農業再開の見通しは立たない」と話す松倉憲三さん(記者撮影、以下も同じ)

晴れやかな式典の陰で

7月12日午前零時、福島県南相馬市の小高区(旧小高町)では、原発事故から5年4カ月にわたって続いてきた政府による避難指示が解除された。早朝にはJR常磐線の原ノ町駅-小高駅間の運転が再開され、桜井勝延・南相馬市長自らが始発列車に乗り込んだ後、小高駅前での式典で復興への誓いを述べた。原発事故前に約1万3000人が暮らしていた町に再び住民が戻れるようになった。

だが、除染の完了や農業など生活基盤再建を後回しにして政府が避難指示解除に踏み切ったことが、大きな問題をもたらしている。

松倉さんの自宅は、小高区西部の沢沿いに住宅が点在する神山地区の中心から浪江町方面へ山道を登る途中にある。ここは避難指示解除準備区域に区分けされていたが、事故直後から放射線量が高かった。12年当時の自宅周辺の空間放射線量は1時間当たり2~3マイクロシーベルト前後に達し、市の職員による計測では庭先で12マイクロシーベルト(年換算100ミリシーベルト超)というホットスポット(高濃度汚染地点)が見つかった。宅地周りの除染が終わったのはつい最近のことだ。

松倉さんは、原発事故後3年半にわたってプレハブ仮設住宅で暮らした後、2年前に南相馬市原町区に中古の一戸建て住宅を購入。現在はそこから軽トラックで30~40分かけて元の自宅に毎日通っている。周辺にある田んぼが荒れないように草刈りをするためだ。

しかし、「コメ作りはどう見ても無理だ」とあきらめている。田んぼの水は沢から引いているが、その源流の山林が放射性物質で汚染されたままなのだ。

神山の自宅にも戻れる状況にない。避難生活が長引く中で、イノシシが窓を押し破って入り込み、屋内はハクビシンの糞尿で異臭が立ちこめるようになった。築50年を超す母屋は、避難後に年々傷みがひどくなり、6月にはついに取り壊しを余儀なくされた。残された築30年の車庫兼住宅にはトイレも風呂もなく、地震で水道管もダメになっている。

兄と一緒に経営していた浪江町の建材販売会社は、避難指示を機に休業に追い込まれた。2015年2月には東電による休業賠償も打ち切られた。農業に関する賠償も来年以降の方針がいまだに決まっていない。
戻りたくても戻れない事情

神山の西隣に川房という集落がある。ここは空間線量が年間20ミリシーベルトを超えていたことから、地区全体が2012年4月に居住制限区域に指定された。それが今年7月12日には、一段階下の避難指示解除準備区域を経ることなく、一足飛びに避難指示が解除されることになった。地区ではいまだに住宅周りに高い汚染が残るうえ、田畑の除染も終わっていないにもかかわらずである。

横田芳朝さん(71歳)は南相馬市でも指折りの梨農家だが、5年以上にわたって手入れができなかった梨畑は放射能に汚され、荒れるに任せている。

原発事故直後、「数日で戻ってこれる」と思って自宅を後にした横田さんだが、着の身着のままでスタートした避難生活は早くも5年以上にもなっている。現在はさいたま市内の賃貸住宅で妻と二人で避難生活を続ける一方、1カ月に一度のペースで川房との間を行き来する。地区の話し合いや知人の葬儀など、さまざまな用事があるためだ。横田さんも帰還の見通しは立っていない。

今年5月に川房行政区が住民向けに実施したアンケート結果によれば、回答した62人のうち、「解除になればすみやかに戻る」と答えたのはわずか7人、11%に過ぎなかった。横田さんは「すぐには戻らないが、時期を見て戻る」にマルをつけた22人(36%)のうちの一人だった。

すぐに戻れないことにはいくつもの事情がある。第一の理由は家族の事情だ。94歳の母親は現在、埼玉県内の特別養護老人ホームに入所している。「南相馬に戻っても、どの施設も満杯なので、連れて行くのも難しい」(横田さん)。68歳の妻からは「隣近所もいないところに帰ってどうするの」と心配されている。ただし、江戸時代から続いてきた農家の17代目の当主である横田さんには、「自分が戻らなければ」という気持ちも強い。

荒れ果てた梨畑を眺める横田芳朝さん

東電は新たな賠償方針を提示していないもっとも、生活を支えてきた梨栽培の再開は不可能に近い。一度手入れをやめた梨の木の枝は伸び放題。放射性物質も付着しているため、切り倒す以外に手だてがない。問題はその後だ。畑の除染をして新たに梨の木を植えたとしても、「実がなり始めるのに5年、採算が取れるまでに10年かかる」と横田さんは説明する。「その間は無収入。年齢的にも無理だろう」ともいう。

「避難指示区域で農業を再建するには、これまでのような休業による所得の減少分だけでなく、営農再開に向けての費用の補償も求めていかないといけないだろう」とJAふくしま未来そうま地区本部の担当者は説明する。だが、はたして東電は個別農家の事情をきちんと踏まえた新たな賠償方針を提示するのか。本来、今年春までに提示される予定だったのが秋にずれ込んでいるうえ、いまだに方向性が見えない。

このような事情があるにもかかわらず、避難指示の解除が大急ぎで進められようとしてきたことに、住民は反発を強めている。

1月24日、福島県南相馬市の小高区役所で始まった政府および南相馬市と小高区川房地区の住民代表との話し合いは、予定の時間を大幅に超過して3時間にも及んだ。

議論が紛糾したのは、会合が1時間半を過ぎた頃だった。参加していた女性が、高木陽介・政府原子力災害現地対策本部長(副経済産業相)に向かって大きな声を上げた。

「私たちの話を聞いて(避難指示を)解除するって約束したじゃありませんか。それが守られていないから、解除しないでくださいって言っているんです」

女性は書類を取り出し、「こう書いてある」と言って読み上げた。
「貴行政区(=南相馬市小高区川房行政区)は、国が責任を持って除染をすることになっています。まず、除染をさせていただいて(現在の)居住制限区域から避難指示解除準備区域にします。その後、インフラ整備等ができた時点で、皆さんのご意見等をお聞きして避難指示区域の解除となります。その後、川房に戻る、戻らないについては、ご本人の判断になります」

川房地区を占拠する汚染土砂の仮置き場

政府や市長は約束破り

政府の後藤収・現地対策本部副本部長が「それって環境省(が作った文書)?」と驚きの表情を浮かべた。
「南相馬市です」と女性。
「市が言ったの?」と聞き直す高木本部長。
江口哲郎副市長(当時)は「私個人はまったく初耳。発言者はどなたですか?」と聞き返した。

ここに、女性が読み上げた文書の写しがある。2012年8月3日付けで桜井・南相馬市長が当時の川房行政区長に宛てて回答したものだ。

表題は「川房行政区 警戒区域解除後アンケート結果に伴う市の考えについて」。そこでは、いっぺんに解除するのではなく、除染後に現在の居住制限区域から避難指示解除準備区域に変更すること、インフラ整備後に地区の住民の考えを聞いてから避難指示解除となること、などが明記されていた。

やりとりの中で、高木本部長は桜井市長名の文書について、「今初めて聞いた。ここのメンバーはその場にはいなかった」と発言。

「それは逃げではないか」と声を上げる住民を前に「いや逃げてはいない。国のメンバーがいて立ち会っていたなら責任を取っていかないといけないけど、そこにはいなかった」と高木本部長は反論した。

だが、政府や市長が住民との約束を反故にしたことは紛れもない事実だ。内閣府の原子力被災者生活支援チームが13年10月に作成した「避難指示区域の見直しについて」と題した資料にも、次のような記述がある。

「電気、ガス(中略)など日常生活に必要なインフラや医療・介護・郵便などの生活関連サービスがおおむね復旧し、子どもの生活環境を中心とする除染作業が十分に進捗した段階で、県、市町村、住民との十分な協議を踏まえ、避難指示を解除する」

「解除に当たっては、地域の実情を十分に考慮する必要があることから、一律の取り扱いとはせずに(中略)県、市町村、住民との十分な協議を踏まえ、避難指示を解除する」


集落の全世帯が解除に反対

本来であれば、避難指示が解除されて住み慣れたわが家で暮らせるようになるのは喜ばしいことだ。しかし、除染もきちんと実施されておらず、農業を初めとした地域の産業が破壊されたままでは、避難指示解除に多くの住民が不信感を持つのは当然だ。なぜならば、避難指示解除は、遠くない時期に精神的損害や農業の損害賠償終了にもつながっていくからだ。原発事故の被害を賠償だけで解決することはできないが、生活基盤が整わずに賠償がなくなれば住民は切り捨てられたのも同然になる。

小高区の山あいにある川房行政区では今年までに、全世帯が連名で避難指示解除に反対する要望書を政府に提出していた。それにはいくつかの理由があった。

佐藤定男・川房行政区長によれば、「除染が不十分だったことが大きい」という。

佐藤区長は当初、「囲い」(屋敷林)の除染について、宅地の境界から5メートル先までしか対象にしないと環境省から聞かされていた。しかも、除染とは名ばかりで、雑草やゴミを取り除くだけで汚染された土壌はそのままにするというものだった。行政区が一致団結して要求したことで最近になってようやく表土の除去と客土による入れ替え、20メートル先までの除染を行うことが決まったという。

田畑の除染もいまだ途上だ。地区のあちこちに未実施の箇所があるうえ、田んぼの土手も草を刈っただけで表土の除去は実施されていない。そのため、空間線量が毎時1マイクロシーベルトを上回る箇所が点在している。

政府が避難指示解除の基準とする年間追加被ばく線量20ミリシーベルト(政府の計算で毎時3.8マイクロシーベルト相当)以下ではあるものの、一般人の立ち入りを厳しく規制する放射線管理区域の設定基準である年間5.2ミリシーベルトを上回っている地点も少なくない。

除染後も毎時1マイクロシーベルトを超える場所も(川房行政区)

桜井市長の責任を問う声も

避難指示解除に反対したのは川房地区の住民だけではなかった。5月15日から22日にかけて市内で4回にわたって開催された小高区の住民向け説明会でも、「避難指示解除は時期尚早だ」「農地や道路、墓など除染が完了していないところがあちこちにある」といった意見が相次いだ。また、「解除の時期を国と市長で決めることには反対だ」「解除時期についてアンケートを採ってほしい」という声も上がった。

だが、桜井市長はそうした意見に耳を貸さず、説明会の終了からわずか5日後の5月27日には政府による解除方針の受け入れを決定。県外に避難している住民への説明会はその後の6月4日から12日にかけて実施されるなど、後回しの対応になった。

南相馬市と対照的なのが、川俣町の対応だ。7月7日の町議会全員協議会で川俣町は、「山木屋地区については8月末までの避難指示解除目標を正式に撤回する」と表明。古川道郎町長は、山木屋地区自治会から要望されている2017年3月末も視野に入れて解除時期を延期する考えを明らかにした。宅地周りの線量引き下げや帰還後の生業の確立など、抱えているテーマは南相馬市小高区と同じだ。

避難指示解除前日の7月11日、小高区の住民有志が南相馬市役所内の記者クラブを訪れて「福島第一原発事故の避難指示解除に当たって、桜井勝延市長の歴史的責任を問う」と題した文書を記者に手渡した。有志の一人である國分富夫さん(71歳)は、「住民の叫びを真摯に受け止めずに、事実上切り捨てたこと」など3点にわたって桜井市長には判断の誤りがあると批判する。国分さんは12日には市にも文書を提出しようとしたが、受け取りを拒否された。

南相馬市は避難指示解除後の復興の取り組みについて国、県との間で合意文書を取り交わすことにより、国が復興をおろそかにすることがないように歯止めをかけたという。解除を遅らすことは復興の営みを妨げるというのが桜井市長の考えだ。

だが、性急な解除によって住民との間に生まれた溝は深く、多くの住民が国や南相馬市に不信感を抱く結果になっている。南相馬流のやり方が正しかったのか、検証すべき点は多い。

岡田 広行 :東洋経済 記者

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