2015/08/09

原爆・原発 不安なき世に 福島市・中野さん

2015年8月9日 河北新報http://sp.kahoku.co.jp/tohokunews/201508/20150809_63012.html


セミが鳴く木を見つめる中野さん。
70年前、セミ捕りで木登りしていた子どもたちが爆風で吹き飛ばされるのを見た=福島市内

















◎長崎で被爆/福島第一事故後、健康コールセンター勤務
長崎で3歳の時に被爆し、福島で放射線被ばくと向き合った男性がいる。福島市の中野節夫さん(73)。福島第1原発事故後、福島県の県民健康調査のコールセンターに一時勤め、被ばくに不安を抱く声に耳を傾けてきた。長崎原爆から9日で70年。節目の夏に被爆も被ばくもない世の中を願う。

◎県民の声に向き合う
福島市中心部、ビル一室のコールセンター。十数人のオペレーターが平日朝から夕方まで電話を受ける。険しい表情を見れば、話の内容はおおよそ察しが付く。

「被ばくした孫をどうしてくれる」「病気になったら誰が責任を取るのか」。オペレーターの手に余れば責任者の2人に代わる。医学的な相談なら医師に、その他の苦情は自分にだ。

「中野と申します」。元は大手メーカーの品質管理部門の幹部。「まず名乗らないと信用されない」と肌身で知っていた。電話は1時間以上、時には2時間近くになった。「聞いてくれてありがとう」と感謝されることもあった。

70年前、防空壕(ごう)から黄緑色の閃光(せんこう)を見た。爆心地から約3.6キロ。やがて、雨が降りだした。

父は旧長崎医科大の工事現場で爆死した。県民健康調査は、同大の流れをくむ長崎大医学部の主導で始まった。コールセンターの仕事に縁を感じた。

ある日、福島県浜通り地方の女性から電話があった。最初の水素爆発から数日後の避難中に、雨で体がぬれた。「被ばくは大丈夫だろうか」と問われた。

「私も長崎で『黒い雨』を浴びた。心配ありません」。喉元まで出かかったがのみ込んだ。自分は断言できる立場にない。結局、コールセンターを辞めるまで、自分の体験は明かさなかった。

甲状腺がんを心配する相談者には回答マニュアルに従い「チェルノブイリ原発事故を見ても、4年以内に発症することはない」と説明した。自分は以前「原爆投下から1週間で50ミリシーベルトほど被ばくしたかもしれない」と医師に言われたことがある。あまり深く考えないようにしてきた。

原発事故から4年以上が過ぎた。「戦争で被爆した自分は仕方ない。だが、原子力の平和利用の名の下で被ばくした人たちは、やりきれない思いだろう」

9日は、長崎の原爆死没者追悼平和祈念館に収められた父と伯母の遺影を拝みに行く。同じ九州の鹿児島県で数日中にも、川内原発が再稼働する。「理不尽なことが起きようとしている。この流れは何としても止めたい」と父たちに誓う。(報道部・若林雅人)

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