2016/02/11

(東日本大震災5年 問われる科学)6:情報の共有 放射線リスク、どう解釈

2016年2月11日 朝日新聞
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12204167.html?rm=150

東京電力福島第一原発事故では国や科学者によるリスク情報の伝え方が批判を浴びた。専門的な情報を共有していくにはどうすればよいのか。

■「判断材料を」住民ら測定

1月下旬の朝。福島第一原発の南27キロにある福島県いわき市末続(すえつぎ)地区の集会所に、近くの住民が次々と集まってきた。手には自宅の畑で取れたばかりの白菜やキンカン。月2~4回開かれる、食品の放射性物質の量を測る集まりだ。

市民グループのメンバーが手際よく包丁で切ってミキサーにかけ、測定機に入れる。住民らが談笑していると、約15分でパソコン画面に結果が出た。

遠藤正子さん(66)が持参したブロッコリーは1キロあたり1ベクレル。測定機に検出限界値未満を表示する機能がないため、この数字が出るという。毎回ほぼ同じ結果で、食品の基準の100ベクレルを大きく下回る。「やりたくてやっているのとは違う。でも、目に見えない放射能が数字として見えると安心なので」と話す。

市民グループは市内の自営業、安東量子さん(39)らが2011年秋に立ち上げた。国や行政が出す放射線の情報は一般論ばかりで、「今、ここで暮らしていいのか、自分で判断する材料が欲しかった」からという。チェルノブイリ原発事故の汚染地の取り組みを学び、その名前をとって「福島のエートス」と名付けた。

その冬には末続地区の住民と一緒に勉強会を開き、地区内の空間線量、食品中の放射性物質の測定を重ねた。1時間ごとの外部被曝(ひばく)線量が分かる個人線量計を身につけて、実際の生活での被曝量も測定してきた。

活動を支えようと国内外の専門家も地区を訪れた。だが、住民も最初から受け入れたわけではない。

12年夏、国際放射線防護委員会(ICRP)の関係者が初訪問した際は住民の表情は硬かった。遠藤さんは「あの頃は不安ばかり。偉い人たちが来てくれたと言っても、どんな人たちなのかわからず受け入れにくかった」と振り返る。

その後、安東さんが福島県立医大の医師らと車座集会などを何度も開催し、個人線量計の数字を丁寧に解説した。少しずつ専門家の人柄が伝わっていったことで意思疎通がなめらかになり、数字が持つ意味を自らの肌感覚でとらえられるようになっていったという。

活動を支援してきた一人、東京大の早野龍五教授(原子核物理学)は「5年間、科学者側も手探りだった。測ること自体がコミュニケーションツールになって、少しずつ信頼してもらえるようになった。この経験を他の地域にどう伝えるか。そこが課題だ」と指摘する。
食材をミキサーにかけてから放射性物質の濃度を測る。
末続地区の住民にとって、測定中は貴重な語らいの時間だ=福島県いわき市
■科学だけで決められない

原発事故がなければ、日常生活で放射性物質の心配をすることもなかった。それが突然、ベクレルやシーベルトといった見慣れない言葉を理解するよう迫られることになった。

国は食品や避難の基準を次々に出し、「科学的な根拠をもとにした」と説明した。しかし、もともと基準がなかったことや、次々に変更されたことで住民の不信や混乱を招いた。

主な食品は当初、原子力安全委員会が示していた指標などをもとに放射性セシウム1キロあたり500ベクレルが暫定的な基準になった。国や自治体による検査が始まると毎日のように結果が公表され、農作物などの出荷停止や自粛が相次いだ。

その後、厚生労働省の審議会などの議論を経て、事故から1年あまりたった12年4月に1キロあたり100ベクレルに改められた。長期の摂取を考慮し「より安全と安全を確保するため」と国は説明したが、「これまでの基準値では危険だったのか」「もっと低くなくていいのか」と反発の声が出た。

避難の指示も後手に回った。事故後、原発から10キロ、20キロと避難指示区域が拡大したが、長期的な被曝に対する目安はなかった。原発から離れていても汚染が広がった福島県飯舘村などの住民に避難が指示されたのは、事故から1カ月以上たった4月下旬。「なぜ今さら避難なのか」などの批判を招いた。

放射線の影響は数値で線引きできないことが、こうした混乱に拍車をかけた。100ミリシーベルトを下回る影響ははっきりせず、被曝は可能な限り低くするというのが放射線防護の原則だ。自ら望んだわけではないリスクをどう考え、どう受け止めるかは個人の価値観にもかかわる。

「安全だ、安全ではないと科学者が踏み込みすぎだった面がある」と東京大の岸本充生特任教授(リスク学)は振り返る。「科学的なデータに基づいていても、どこで線を引くかは社会における約束事。さまざまな考え方があり、科学だけで決められない問題だ」と話す。

事故前、原子力業界は「大事故は起きない。原発は安全だ」と主張してきた。事故でそれが根底から覆ったことが関係者の不信につながった。それは放射線の専門家にも及び、尾を引いている。

大分県立看護科学大の甲斐倫明教授(放射線防護学)は「今の福島県では放射線のリスクは復興にかかわる問題だが、県外では原発の是非に絡められることがあり難しい。放射線のリスクや基準を社会に分かりやすく説明し、合意を得る努力が必要だ」と話した。(野瀬輝彦、木村俊介)


■<視点>一方通行の説明は無力

集会所での測定会は、末続地区ですっかりおなじみだ。お茶とお菓子をつまみながら結果を待つ光景は一見、町内会の会合のようでもある。

一方で、「福島のエートス」には「リスクを過小評価し、福島での生活を強要している」との批判もある。住民の低線量被曝(ひばく)を気遣った声なのだろう。原発推進と結びつけて語られることもある。

ただ、震災後に福島で勤務していた私は、実態は少し違うように感じる。福島では各地で、この土地で暮らし続けたいと素朴に願う人たちが「こうすれば安心ではないか」と様々な試行錯誤を重ねてきた。末続地区での取り組みもその一つだ。

事故前から原子力関係者はよくリスクコミュニケーションという言葉を使ってきた。本来は市民や専門家らが対等な立場で意思疎通する取り組みだが、原子力を「正しく怖がり、理解してもらう」というニュアンスも込められていた。

しかし、それは実際に事故が起きてみると、失敗の連続だった。被災者自らが手探りでリスクと折り合うことを迫られた。

福島では今後も長期にわたり放射性物質と向き合うことを強いられる住民がいる。この5年ではっきりしたのは、聞こえのいい情報や一方通行の説明は、過酷な現実の前には無力だということだ。この教訓を我々の社会がどう生かすのかが問われている。(野瀬輝彦)

0 件のコメント:

コメントを投稿