2016/02/16

(核の神話:14)原発の影見つめた 今中助教の47年

2016年2月16日 朝日新聞
http://www.asahi.com/articles/ASJ2D6GK3J2DPTIL01Q.html

連載「核の神話」第1部(1~5)で米国による広島・長崎への原爆投下をめぐる「100万人神話」、第2部(6~13)で「マンハッタン計画」の拠点ハンフォードで放射線の「安全神話」を検証した。第3部(14~)では、広島・長崎原爆投下からビキニ被曝(ひばく)事件、チェルノブイリ原発事故、福島原発事故と続く、核兵器と原発の危険に包まれた核の時代をどう生き抜くかについて、識者やヒバクシャらと考える。

まずは京大原子炉実験所(大阪府熊取町)の「熊取6人組」の最後の現役、今中哲二助教(65)による1月28日の最終講義(学術講演会)「原子力と付き合って47年:広島・長崎、チェルノブイリ、そして福島」を再現したい。出世と無縁だったが、国、電力会社、学界の「原子力ムラ」の面々が原発を推進するなか、その危険や課題を訴え続けた。
    ◇

■今中哲二・京大原子炉実験所助教の最終講義(2016年1月28日)

【個人的なこと】
私が原子炉実験所に助手として着任したのは1976年のことでしたから、この4月で丸40年になります。原子力発電が日本で本格的に始まったのは、70年3月に運転を開始した敦賀1号。敦賀原発からの電気が、大阪万博の開催に合わせて千里の万博会場に送られたというニュースを大阪大原子力工学科の学生として誇らしく感じました。以来、原子力屋の端くれとして、日本の原発の「盛衰」を50年近く眺めてきたことになります。

日本の原子力開発のありように疑問を持ち始めたのは東工大の大学院生時代。当時、日本中で原発建設が進められていたと同時に、ほとんどすべての原発予定地で強い反対運動が起きていました。反対運動を支援しているグループと一緒に現地へ行く機会があり、地元の人と交流する機会がありました。建設に反対している人々から「国や電力会社は『どんなことがあっても事故は起きません』『原発ができたら地元におカネが入るし、仕事も増える』と言っている。では、何でそんなに結構なものを都会のまわりにつくらず、伊方や柏崎といった田舎につくるのか」という問題提起を受けました。そうした問題提起や反対運動をカネと力で押しつぶしながら原発が増え続け、最後には福島原発事故に至ってしまいました。

私の学生時代は大学騒動やベトナム戦争反対運動など学生運動まっ盛りの時代でした。いわゆる活動家だったことはありませんが、若いなりに社会に向き合い、社会全体を客観化し、自分がどのような生き方を選択するのかが問われた時代でした。まずは「大手企業に就職して日本の中枢を支えている部分を眺めてみよう」と思っていたのですが、折からの第1次石油ショックで求人が冷え込んでいたところに、知り合いから「京大原子炉で助手を公募しているので受けてみたら」と声がかかりました。軽い気持ちで応募したら、筆記試験と面接があって、どういうわけか採用された。という次第で、原子力開発のありように疑問を抱き、研究者を志していたわけでもなかった原子力工学の大学院生が、なりゆきで原子炉実験所の助手になってしまった、というのどかな時代でした。

伊方原発裁判は、四国電力伊方原発の設置許可取り消しを求めた日本で最初の原発裁判で、私が原子炉実験所に入所したとき、海老澤徹、小林圭二、瀬尾健、川野真治、小出裕章の5人の助手が、原発安全性の技術的問題に関する原告住民側の助っ人として裁判に関わっていました。私もグループに加わって裁判を手伝いました。私にとって、伊方裁判を手伝い傍聴した経験は、原発の技術的問題をはじめ、原発がもっている社会的問題、さらには国の原発安全審査に関わっていた先生方の専門的レベル、そもそも裁判の社会的役割に至るまで、いろいろ勉強になりました。

一方、原子炉実験所の助手になったものの、研究者としてはしばらくは「暗中模索」の状態でした。転機となったのは、79年に米国で起きたスリーマイル島原発事故。それまでの日本の原発安全性の議論は机の上での議論でしたが、この事故は原発というものが破局的な事故に至る可能性を抱えていることを事実で示しました。

スリーマイル島原発事故を調べ、勉強する中で、原発に対する私のスタンスは「その安全性に疑問を持つ」から「もともと危険なもので、下手をしたら大災害が本当に起きてしまう」というものに変わりました。この事故による放射能放出量評価の仕事を瀬尾さん(94年逝去)と一緒にやった経験が、研究者としてのその後の私のベースになったと思っています。

最終講義をする今中哲二助教
=大阪府熊取町の京大原子炉実験所、田井中雅人撮影 

【広島・長崎】
広島・長崎の原爆放射線量問題の勉強を始めたのは、80年ごろでした。広島・長崎の被爆生存者追跡調査のために当時使われていたT65D線量が間違っているという記事がScience誌に出たのをきっかけに、原子力資料情報室の高木仁三郎さん(2000年逝去)の提案で勉強会を始めました。その会で、放射線輸送計算を私が担当することになり、いろいろな方の手ほどきを受け、新しい原爆放射線量DS86の検証計算をしました。

その後、DS86に基づく計算値と測定値が合わないという問題が浮上し、広島大の葉佐井博巳さんから「今中さん、計算できるんなら手伝えや」と誘われ、広島グループとの共同研究が始まりました。原爆線量問題は葉佐井さんが日本側の責任者として日米合同ワーキンググループとして問題解決にあたることになり、私も手伝うことになりました。曲折はあったものの、新たな原爆線量評価システムとしてDS02が2004年に採択されました。

DS02で扱っているのは原爆炸裂(さくれつ)時の初期放射線のみで、中性子誘導放射能や放射性降下物といった、いわゆる残留放射能については、初期放射線に比べて寄与が小さいということで扱っていない。DS02以降は残留放射能にともなう被曝量を見積もっておく作業をやってきました。

1945年8月6日の広島原爆投下後の黒い雨や残留放射能の問題について、9月の枕崎台風で全部流れちゃったという専門家の方もいらっしゃるんですけれども、そんなことはない。この間、雨がほとんど降っていませんから。最大でバックグラウンドの6倍から7倍の(放射線量率の)数値が出ています。

【チェルノブイリ原発事故】
「チェルノブイリ」という聞き慣れない言葉を耳にしたのは1986年4月29日、当時の天皇誕生日の朝でした。その3日前にソ連の原発で重大事故が起きてスウェーデンでも放射能が検出された、というニュースだったと思います。事故の詳細は分からないが、日本まで放射能が飛んでくるかもしれないというので、小出さんとモニタリングの準備を始めました。チェルノブイリからの放射能を熊取で検出したのは5月3日に降った雨の中のヨウ素131でした。5月5日のエアサンプリングでは1立方メートルあたり0.5ベクレルのヨウ素131を検出しました。

私たちのグループは、事故直後から瀬尾さんを中心に世界規模での放射能汚染評価を試みていましたが、ソ連国内のデータが全くといっていいほど出てきませんでした。状況に変化が起きたのは事故から3年たった1989年春のことで、ゴルバチョフの民主化政策によってソ連共産党の独裁体制が崩れ始め、チェルノブイリ周辺の汚染地図がようやく公開されました。ベラルーシ科学アカデミーの研究者と交流が始まり、90年8月に初めて瀬尾さんとチェルノブイリに行きました。これまで23回チェルノブイリに行き、最初は共同研究でもしようかと思っていたんですが、ソ連・ロシアの連中がほとんどやるべきことはやっていた。ただ、西側に情報が出てこない。当時、向こうの研究者はほとんど英語で論文を書きませんでしたから、行って会って話をして、おもしろい研究があったらそれをリポートにしてもらって、それを英語と日本語でパブリッシュをするということをやっていました。それなりにいい仕事ができたんじゃないかと思っています。

情報が出てこなかった3年間の間に埋もれてしまったものもいっぱいある。91年にソ連がつぶれて92年にソ連共産党の秘密文書が出てくる。(チェルノブイリ原発事故で)何百人もの一般人が病院に収容されていた、と。これは、オーソリティーあたりの間では、いまだに全く無視されている話です。

「原発で最悪の事態が起きたらどのような被害が周辺にもたらされるか」という問題意識でチェルノブイリのことを調べてきました。20年以上にわたるチェルノブイリ通いをして得た教訓は次の二つです。

(1)原発で大事故が起きると周辺の人々が突然に家を追われ、村や町がなくなり地域社会が丸ごと消滅する。

(2)原子力の専門家として私に解明できることは事故被害全体のほんの一側面にすぎず、解明できないことの方が圧倒的に大きい。

今、事故を起こしたチェルノブイリの原子炉に石棺をつくろうとしている。見に行ったときに「あと何年持つねん?」と聞いてみたら、「100年は持ちます」という。「そのあとは?」「わからん」ということです。

【福島原発事故】
2011年3月までの私は、「日本でも54基の原発が運転されており、下手をしたらチェルノブイリのようなことが起きる可能性がある」と警告を発していればよかったのです。3月11日の地震・津波によって福島第一原発で全交流電源が失われ、翌12日の午後に1号機で爆発が発生。その映像を繰り返し眺め、原子炉建屋天井は吹っ飛んだものの格納容器が破壊されていないのを確認して私はほっとしました。14日には3号機建屋も爆発しましたが、「福島がチェルノブイリのようになってしまった」と私が確信したのは、3月15日午前11時の記者会見で当時の枝野官房長官が「2号機の格納容器が壊れたもよう」と発表したときでした。実際、その日の午後、北西方向への風によって、浪江町、飯舘村、福島市の方へ流れたプルームが、雨や雪と重なって地表に大量に沈着し、「北西方向高汚染帯」が形成されました。当時の状況から考えて、福島第一原発周辺では広範囲に汚染が生じているのは明らかでしたが、どういうわけか汚染に関する情報が全くといっていいほど発表されませんでした。私たちが飯舘村の調査に入ったのは、汚染が起きてから2週間後の3月29日。南部の長泥地区で最大30マイクロシーベルトの線量率を測定しました。土壌汚染核種濃度から逆算すると、3月15日の夜は150~200マイクロシーベルトありました。地元の人によると、「3月15日の夜、白装束の男たちがやってきて測定して帰ったが、値は教えてくれなかった」そうです。どうも福島の原子炉と同じく、当時、日本の原子力防災システムもメルトダウンしていたようです。

飯舘村が避難区域に指定されたのは4月22日。私たちが実施した「飯舘村初期被曝評価プロジェクト」の結果では、飯舘村民が避難するまでの平均外部被曝量は7ミリシーベルトとなりました。全村避難が続く飯舘村では2017年春の避難解除に向けて大規模な除染が実施されています。しかし、すぐ村へ戻ろうという人はせいぜい2割。除染をえらい勢いでやってますけれども、除染の効果は基本的に5割だと思って下さい。セシウムはそんなに動きませんから、地元の人には「これから30年、50年先を考えながらやっていくしかないです」と言ってます。大変ですけれども、汚染地域で暮らすということは、余計な被曝をしないということと同時にある程度の被曝は避けられないという、相反することにどう折り合いをつけるか。福島での私のこれからの役割は、人々が放射能汚染に向き合うときに必要な知識を提供し、人々が判断するときに手伝いをすることだと思っています。

「リスクがある」ということは、はっきり言う必要がある。世間の人は「安全か、危険か」「ここに住めるのか、どうなんだ」という聞き方をするんですね。要するに「0か1かで答えろ」と。「それは無理だ。リスクはつきまとうし、自然放射線もあるし、医療放射線もあるし、そういうリスク全体の中で汚染地の中に住むというのはどういうことなのか。私は情報は出せるけれども、住むか住まないかは、その人の判断だ」という言い方をしています。

環境省さんから2年間ほどお金もらって、飯舘村の初期被曝評価をやったら、福島県民調査の数字の倍ぐらいでした。実は私、ほっとしたんです。10倍も違ったら困るなと思って。これくらいの被曝で、集団線量はこれくらいで、もしリスクファクターはこれを使ったらこれくらいで、という数字を出したら、どうも環境省のお役人が気に入らない。「今中先生、こんな数字を出してもらったら困ります。リスクコミュニケーションの邪魔になります」と言われた。リスクコミュニケーションとはそもそも何ぞやと勉強すると、私自身がやってることだ、と。

地元の人と1対1で「先生、住めるか住めないか、答えろ」と突っ込まれますよね。「ほんなもん、答えられるか」って。でもね、30分ぐらい話をすれば、だいたいなんとなく分かっていただける、という気がしています。地元に入って、ひざ詰めでやって、それを積み上げていくのが一番だし、福島の問題を考えるには、被災者が納得できる方向でお金を使うべきですし、政策をやっていくべきだろうと思っています。いろんな意見をフランクにしゃべりながら、それぞれの人が納得していく。これがリスクコミュニケーションですけれども、福島県で環境省などがやってることは、「刷りコミュニケーション」です。

福島の事故が起きてから、「100ミリシーベルト以下では被曝影響が観察されていない」と繰り返し繰り返しいう人たちが出てきますけれども、彼らの根拠は何かというと、結局、広島・長崎の被爆者追跡データですね。ただ、このデータは元々、100ミリシーベルトとか細かいところを議論するような設計にはなっていません。ここだけ見ていても実態はわからない。

もうちょっとみなさん勉強してよ、と思うのは、去年出てきた英米仏3カ国の30万人の原子力労働者データやオーストラリアの子どもたちのCT検査データ、スイスの自然放射線と小児がんの200万人の追跡データもあります。「100ミリシーベルト以下では影響が観察されてません」というのは、私は間違いだと思います。

【まとめ】
今後、日本は原発をどうするのか。中国がどんどんつくる原発が危険だからやめさせろという声もありますし、福島の事故の前は私も中国の原発が爆発するかもしれないと心配していました。ただ、日本が米国の「核の傘」に入りながら「核廃絶」って言ったって全然迫力がないのと一緒で、中国にやめさせたいのなら、まず足元からやめた方がいいと個人的には思います。

原子力に頼るかどうかは社会的判断です。原子力の専門家が決める話じゃない。社会が健全で合理的な判断をするための資料やインフォメーションを出していくのが私の役割だと思っています。

私、なまぐさい現場をずーっと渡り歩いているんで、社会的問題とサイエンスの問題をごちゃまぜにしないようにしています。サイエンスの基本はすべてを疑うこと。それ以上疑えなくなったものが確かだとして残っていく。サイエンスのロジックは確かなことをベースに組み立てるわけですけれども、ここばっかり見てると、すっぽり抜け落ちる部分が出てくる。よくわからないところに大事なファクトがいっぱいある可能性がありますから、ジャーナリストは学者と同じことを言わずに、ちゃんと自分の目で見て自分で判断してくださいね。

一番大事なのは行政ですけれども、学者さんの大好きなサイエンスの話に合わせたところで(基準を)切っちゃうと、水俣病なり薬害の問題なりのように、(被害者が)すっぽり抜け落ちる。あとになって、「しまった」ということになりますから、予防原則的判断が大事なんだろうと思います。

市民運動の人は好き勝手にやってくださいと思いますし、私、いろんな裁判をやってますけれども、裁判のロジックっていうのは「何でもあり」。時々弁護士さんに怒られますけれども、「風が吹いたらおけ屋がもうかる」でも、「風が吹いたらおけ屋がもうからない」でも、どちらでも結構という世界なんだろうなあという気がしています。

私が生まれたのは1950年。子ども時代はテレビも電気冷蔵庫もありませんでしたが、それなりにいい時代でした。70年ごろから日本はエネルギー使い過ぎの時代に入ったと思っています。「1億総活躍」で「GDP600兆円」を目指すより、みんながのんびり暮らせる社会を私は目指したいです。

最後になりますが、実験所のみなさん、40年間お世話になりました。「今中さんたちは原発反対なり脱原発を旗印にしていたら、さぞかしいじめられたでしょうね」といつも言われるんですけど、いや、そんな思いはさらさらありません。ほめられたこともありませんけれども。とにかくみなさんお世話になりました。これからもいろいろとがんばってください。どうもありがとうございました。
(核と人類取材センター・田井中雅人)



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