2016/02/13

とうほくの今 浪江町復興支援員・冨川牧江さん、県外避難者を見守り 11府県、全戸訪問に取り組む /福島


2016年2月13日 毎日新聞
http://mainichi.jp/articles/20160213/ddl/k07/040/014000c

「北陸へ避難していると、太平洋のカツオの刺し身が恋しい」「まさかこんなところで浪江の話ができると思わなかった」。古里から遠く離れた避難先で、地元の話題を地元の言葉で久しぶりに話し、お互いに元気をもらえる瞬間だ。

浪江町の冨川牧江さん(56)は2013年6月から町復興支援員として、原発事故で浪江から関西や北陸など11府県へ避難した人たち約100世帯への全戸訪問に取り組んでいる。町は30人弱の復興支援員を全国に置き、県外に避難した6000人以上への見守り事業を行っている。

冨川さんが毎年訪問するうち「娘が実家に帰ってきたみたい。来年も来てね」と心待ちにしてくれるようになった人がいる。最近は、1人で避難してきた若い世代が避難先で結婚や出産をして、赤ちゃんを抱いて出迎えてくれることも増えた。

冨川さん自身も、浪江の自宅が居住制限区域に指定され、親族を頼って京都市伏見区の公営住宅などで避難生活を続けてきた。浪江の自宅はネズミの被害がひどく、山の近くにあるため除染の効果も期待できない。「もう浪江で生活するのは難しい」と、滋賀県草津市で新生活を始めたばかりだ。

事故から間もなく5年。せっかく避難先で同郷の知人ができても、福島県に戻ったり、住宅を新築したり、仕事や子どもの学校の都合で引っ越したりして、離れ離れになるケースが増えてきた。子どもが避難先の言葉や友達に慣れてしまい、福島に戻ることを諦めた家庭もある。

避難直後は仲良くしていた夫婦が、避難生活が長引くにつれ、すれ違いが増え、別居を余儀なくされたこともあった。夫は「うちは元気でやっている。気を使わず、ほかの家に行ってあげて」と気丈に振る舞っていたが、実際は避難先に一人残され、引きこもりのような状態だったという。

冨川さんは「無我夢中だった生活が落ち着いてきて、はっと気付くともう4年、5年。事故から時間がたったからこそ余計に考え込んだり、焦りを感じたりする人も出てきた」と心配する。

関西を拠点に支援活動を続けてきたことで、阪神大震災の教訓に接する機会も増えた。「避難生活が5年を超えるこれからはもっと心配。うまいアドバイスができるわけじゃないけど、言いたいことは少しでも受け止めてあげたい」と思っている。

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