2016/02/04

原発反対の京大「熊取6人組」、35年の自主ゼミに幕

2016年2月4日 朝日新聞
http://digital.asahi.com/articles/ASJ244HPXJ24PLBJ002.html?rm=721

京都大原子炉実験所(大阪府熊取町)で研究を続け、原発に反対してきた「熊取6人組」。その研究者が35年あまりにわたって実験所で開いてきた市民向けの自主ゼミが10日、幕を下ろす。出世と無縁だったが、国、電力会社、学界の「原子力ムラ」の面々が原発を推進するなか、その危険や課題を訴え続けた。

先月28日、最後の現役だった助教今中哲二さん(65)の実験所の退職講演。「『脱原発が旗印だといじめられたでしょう』と言われるが、そんなことありません。褒められたこともありませんが……」。出席者約60人から笑いが漏れた。

「6人組」はほかに海老沢徹さん(77)、小林圭二さん(76)、瀬尾健(たけし)さん(1994年死去、享年53)、川野真治さん(74)、小出裕章さん(66)。

6人は年1度、原発の建設反対運動で知り合った和歌山県日高町の民宿に集まるのが恒例だった。左から川野さん、小林さん、小出さん、1人おいて、今中さん、海老沢さん
=2012年8月、今中さん提供、背景を一部修整しています

「6人組」の活動のきっかけは73年に始まった四国電力伊方原発(愛媛県)の原子炉設置許可取り消しを求めた訴訟。最高裁で敗れるまで19年間、専門を生かして原告の住民を支援し、法廷で証言もした。研究のかたわら、活動は各地に広がり、原子炉に詳しい小林さんは高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県)の設置許可処分の無効確認を住民が求めた訴訟に関わった。

今中さんは、瀬尾さんと79年の米スリーマイル島事故の放射能放出量の評価をしたほか、86年に起きたチェルノブイリ原発事故の現地を二十数回訪ね、放射能汚染の評価に取り組んだ。

「運動組織でも、徒党を組んだわけでもない。個人の考えでやってきた」と今中さんはいう。原発推進の「ムラ」の存在が圧倒的な世界。昨年退職した小出さんは圧力や嫌がらせを受けたことはなく気楽に研究に打ち込めたと振り返るが、6人は助手、講師、助教、助教授どまりだった。


6人組について、高速増殖炉開発を支援してきた大阪大の宮崎慶次名誉教授(78)は、「科学的根拠に基づく指摘を受け、推進側として学ぶべき点があった」と評する一方、「研究者というより原発反対のための運動のように映ることもあった」とも語る。

それでも「専門家は市民に分かりやすく科学技術の問題を説明する責任がある」(今中さん)を信念に80年から年数回、市民向けの自主ゼミを開いてきた。

東京電力福島第一原発事故。電力会社や推進派の学者が起こりえないとしてきた重大事故だった。放射能汚染が広がり、福島の避難者は今も自主避難を含め約10万人いる。2011年3月18日のゼミは、参加者が普段の3、4倍の約120人に膨れ上がった。その後、今中さんは福島県飯舘村で放射線量を自主的に測定し、結果を公表した。

「異端」の存在だった5人は一躍脚光を浴びた。小出さんは事故後、集会などで約300回講演した。ただ「事故が起きてしまったことは、敗北でもあった」と悔やむ。小林さんは「事故は起こることが証明された。リスクを受け入れるかどうか。一部の人間ではなく社会全体で考えるべきだ」と訴える。

112回目となる最終回は参加が締め切られたが、久しぶりに5人がそろう。瀬尾さんの遺影と記念撮影もする予定で、決意を新たにする。「ゼミはこれでおしまいだが、福島のような事故がまた起きたら、再び集まり原子力研究者の責任を果たしたい」。今中さんはそう決めている。
(編集委員・服部尚)


     ◇
〈伊方原発ともんじゅの住民訴訟〉 四国電力伊方原発1号機の設置許可取り消しを求めた訴訟は1973年に始まった。最高裁は92年、「行政の裁量権」を尊重する判断を示し、原告敗訴。その後の司法判断に影響した。一方、もんじゅの設置許可の無効確認を求めた訴訟は福井地裁で住民敗訴、名古屋高裁金沢支部で2003年、「国の安全審査は不十分」として住民側が勝訴したが、最高裁は05年、「安全審査に過誤はない」と判断した。

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