2016/04/27

(核リポート)菅元首相「首都圏避難なら地獄絵だった」

2016年4月27日 朝日新聞
http://www.asahi.com/articles/ASJ4T5PXXJ4TPTIL01Y.html

幸運だったとしか思えない――。2011年3月の東京電力福島第一原発の事故対応に追われた菅直人元首相が、朝日新聞記者のインタビューに応じた。1986年に起きた旧ソ連・チェルノブイリ原発事故の惨状を思いつつ、首都圏住民が避難する事態になることを恐れ、自衛隊の注水作業を祈りながら見守ったことなど、事故発生当時の心境を語った。過酷事故に対する備えがなく、必要な情報が迅速に報告されないなか、官邸が対応に苦しんだ状況も明らかにした。「東京の住民まで避難せずにすんだのは、神様のおかげと感じざるをえない」とも述べた。

取材に応じる菅直人元首相=東京・永田町、石川智也撮影 

■最悪シナリオ
――事故が拡大するなかで、東京の住民避難も考えたそうですね。

「福島には、第一原発に6基、第二原発に4基と、計10基の原子炉があります。事故の当初から、チェルノブイリ原発の事故は1基だけで、あれだけ放射性物質が飛び散ったのだから、もし、福島の原子炉のすべてが制御できなくなったら、チェルノブイリの何十倍もの放射性物質が放出されるだろうと。実は早い段階で、頭の中では、放射性物質が東京まで来るのか、来たらどうするか、と考えていました。しかし、口に出せない。対策がないのに来るかもしれないなんて言えば、それこそ大ごとですから」

「それに近いことを言ったのは、3月15日です。東電の清水正孝社長(肩書はいずれも当時)を官邸に呼び出すにあたって、周囲に、東電が原発から撤退したら、東京が全部ダメになるぞ、という言い方で初めて口にしたんです。そうして、細野豪志補佐官を通じ、原子力委員会の近藤駿介委員長に、最悪のシナリオをシミュレーションしてほしいと頼んだのです」

――その結果は後に報道されますが、事故が拡大すれば東京都を含む半径250キロ圏内の住民が避難対象になるというものでした。

「はい。やはり、東京も入っていたので、それほどの大事故なんだ、と改めて確認しました。居住する約5千万人が避難するとなると、地獄絵です」


■神のご加護

――5年前を思い返すと、皆、事故がなんとか収まってくれないかと祈っていました。

「そうですね。福島の被害は深刻ですが、東京の住民まで避難せずにすんだのは、神様のおかげと私は感じざるをえません。事故の対処に人間も頑張ったけど、『頑張った』の積み重ねだけで止まったとは思えないのです。政治家としては使ってはいけない言葉でしょうが、正直、あの時だけは、『神のご加護だ』と思いました」


――確かに、例えば2号機の格納容器の15日の圧力急低下の原因は分かっていません。

「最近も東電に聞くのですが、はっきりしません。もし、2号機の格納容器全体が、ゴム風船がパンクするように壊れたら、もう人間は近づけず、対応できなくなる。つまり『終わり』です。ところが、どこかに穴があいたらしい。1号機、3号機も原子炉建屋は水素爆発しましたが、格納容器は大破しなかった。停止中の4号機の使用済み核燃料のプールも、工事の遅れで原子炉上部に水が残っていたことなどから、プール内での核燃料の加熱・崩壊が避けられた。福島は重い被害を受けましたが、日本全体としてみれば助かった。それは幸運だったという以外、総括しようがないんです」


■事故への備え

――過酷事故に対する備えもできていなかった。

「自衛隊は原発の過酷事故を想定した訓練をしていないし、装備もなかったのです。17日の3号機への自衛隊のヘリコプターによる注水作業は、私もテレビ中継を、成功してくれと祈りながら見ていました。前日は上空の線量が高くて注水できず、この日は、床に放射線を遮る金属板をつけ、本当に命がけでやってくれたんです」

「そのときも、チェルノブイリのことが頭にありました。出動した軍の兵士が急性被曝(ひばく)で亡くなっています。自衛隊幹部が『国民の生命と財産を守るのが仕事ですから、ご指示があればやります』と言ってくれた時、ありがたいと思ったのを、はっきりと覚えています」

■情報の混乱

――ところで東電は今年2月、核燃料が溶け落ちる炉心溶融(メルトダウン)を判定する基準が当時の社内マニュアルに記されていたものの、その存在に5年間気付かなかったと発表しました。

「事故の検証を続ける新潟県の技術委員会の求めがあって出てきましたね。私もその資料をインターネットでダウンロードして点検してみたのですが、3月11日の17時15分という地震発生から約2時間半という早い時点で、1号機の核燃料が約1時間後にむき出しになることが予測されていました」

「そのこと自体は、政府の事故調査委員会の中間報告にも出ています。ただ、各方面に確認してみると、この情報は予測された時点では、政府や福島県に報告されていなかったのです。もし、あの時点で政府がこの情報をつかんでいれば、後に出す避難指示を、より早く広く出せていたかもしれないと思うのです(注)」


――翌12日の1号機の水素爆発(15時36分)も官邸に伝わっていなかった。

「そう、日本テレビが16時50分ごろに全国放送し、私もその映像を見て、知ったのです。爆発から1時間以上経っていました。いったい、どうなっているんだ、と。原子炉がどの程度、危険かというのは、住民の避難と表裏一体の関係にあります。法的に事故対応は電力会社になりますが、住民避難は政府の仕事です。それなのに、事故の状態が伝わってこなかったのです」


■統合本部の経緯

――そうしたことがあって15日、政府と東電の統合対策本部をつくることになる。

「そうです。情報が来ないんですから。同じモノをみて、統一して判断する形にしなければいけないと考えました。ただ、前例がありません。法的に可能か調べると、原子力災害対策特別措置法で、緊急事態への応急対策として、対策本部長の総理には原子力事業者に必要な指示をすることができるとあった。それで、官邸に来た東電の清水社長に統合対策本部をつくりたいがどうか、と聞くと、『分かりました』と。では、そちらの本店に行くからと、OKを取ったんです」

「後に、原子力安全・保安院長がマスコミの取材に、『もっと早く東電に行けば良かった』と発言していました。役人というものは、常に(民間事業者を)呼びつける側にいる、自ら出向くことがないんですね。実際、15日、東電本店に行くと、(福島第一原発とつなぐ)テレビ会議システムがあるのをみて、びっくりしました。それさえ、東電本店に行かなければ分からなかったことなのです」


■再稼働の条件

――その後、浜岡原発の停止要請に始まって、ストレステストなど原発再稼働に高いハードルを設けますね。

「経産省はあの頃、原発を維持するという固い決意で対応していたように私には見えました。私が中部電力に浜岡原発の停止を要請し、それが受け入れられると、経産省は今度は玄海原発の再稼働の手続きに入るんです。私は経産相に電話で聞きました。『再稼働はどういう手続きで決めるのか』と。答えは、『それは保安院の判断で認めることができます』というのです。いくら法律がそうなっていても、あの事故を防げなかった保安院だけの判断でよいというのは、国民が納得しないと考えました」

「そこで、再稼働にあたっては、保安院だけでなく、ストレステストの実施、原子力安全委員会の関与と地元の同意、そして最後は総理をふくむ関係閣僚4人で判断する、という四つを、菅内閣の暫定的な再稼働の条件にしました。その後、この条件は原子力規制委員会の設置などによりなくなりますが、あの決定が、今日まで、なかなか再稼働できないという状況につながっています。あの時、私は、『原子力村』の虎の尾というか、頭を踏んでしまったのかもしれませんね」


■脱原発への思い

――首相在任中から、脱原発への決意を固めたのですか。

「原発の安全に対する考えが百八十度、変わりました。福島の事故までは、当時のソ連と違って、日本ではチェルノブイリのような事故は起きるはずがないと、私もどこかで安全神話に染まっていました。旧ソ連の指導者ゴルバチョフ氏の厚い回想録に、『われわれは30年間、原発は安全だと聞かされてきた』と会議で語るくだりがあります。日本もまったく同じ間違いをしていたんですね。それが福島の事故を経験し、私も、完璧に安全な原発はつくれないと考えるようになりました」

「考えてください、再び、あのような事故が起きた時、『神のご加護』が同じようにあると思いますか。私にはそうは思えないのです」


――しかし、いまの安倍政権は、原発再稼働路線を着々と進めています。

「私は、すでに勝負は付いていると思っています。仮に原発を10年かけて建てたとしましょう、で、40年運転する、と。さて、50年後、電源別の発電単価はどうなっているでしょう。再生可能エネルギーのほうが断然安くなっているのは間違いない。そんな原発の建設に、必要な民間資金が集まりますか? 国内の世論をみても、脱原発が6~7割を占めます。司法もそれを無視できません。だから私は、長期的には原発はなくなると楽観しているのです」




(注)東京電力の広瀬直己社長は4月19日、衆議院環境委員会で、菅直人元首相の質問に対して「17時15分の3分前に、福島第一は大変重篤な事態に陥っておりましたので、原災法(原子力災害対策特別措置法)第15条の報告を行っております。原子力緊急事態宣言あるいは住民避難の指示につながる極めて重要な報告でございます」と述べたうえで、1号機の約1時間後の炉心露出という予測については「保安院に正式に伝えた記録は残っておりませんけれども、事態に対して職員たちはしっかりとした行動をとったというふうには考えております」などと説明した。

     ◇

こもり・あつし 1987年入社。名古屋や東京の経済部で、自動車や金融、経済産業省を担当。ロンドン特派員を経て、社内シンクタンク「アジアネットワーク」で地域のエネルギー協力策を研究。現在はエネルギー・環境分野を担当し、特に原発関連の執筆に力を入れる。単著に「資源争奪戦を超えて」「日本はなぜ脱原発できないのか」、共著に「エコ・ウオーズ~低炭素社会への挑戦」など。(小森敦司)

0 件のコメント:

コメントを投稿