2016/04/15

チェルノブイリと福島 核惨禍描いた作家「科学は無力」

2016年4月15日 朝日新聞
http://www.asahi.com/articles/ASJ470PC3J46PTIL01Y.html

「チェルノブイリと福島は一つの鎖です。科学は、その前には無力なのです」――。ノーベル文学賞を昨年受賞したベラルーシの作家スベトラーナ・アレクシエービッチさん(67)が、朝日新聞記者の単独インタビューに応じた。旧ソ連のチェルノブイリ原発事故を描いてきた作家は、福島での事故同様に科学では対処できなかった現実に言及し、事故が人類に何をもたらしたのかを語った。

■アレクシエービッチさん単独インタビュー 「チェルノブイリの祈り」著者

「チェルノブイリの祈り~未来の物語」の作者アレクシエービッチさんは今月26日で事故から30年になるのを前に、一時滞在先のベルリンで取材に応じた。

スベトラーナ・アレクシエービッチさん 

広島・長崎に惨禍を招いた「軍事の原子力」に対し、安全と信じ込んでいた「平和の原子力」の事故が人類の歴史を変えたと指摘。「人間は放射線に対処する準備はできない」とし、「自然に対する人間の立ち位置を見直す新しい哲学が必要です」と述べた。

また、何が起きているのか分からない時点からソ連指導部は「すべてコントロール下にある」と偽っていたと振り返り、こう続けた。「だからこそ、砂粒のような民衆の声、それら『個人の真実』を掘り起こすことが重要なのです」

福島を訪問する意向も示し、「原発事故で避難した人々と会話をし、私たちの体験したことも伝えたい。学者たちにも会って研究成果を聞いてみたい。特に作家たちが事故の意味についてどう思索を深めているかに関心がある」と話した。

チェルノブイリ事故はウクライナ、ベラルーシ、ロシアにまたがって汚染地を残した。この事故と1991年のソ連崩壊を「二つのカタストロフィー」と位置づけ、その歴史を「苦難と涙の文明」と表現した。
     ◇
――チェルノブイリ事故の後、人間はそれまでとは違う「チェルノブイリ人に変わった」と語っていますね。どういうことですか?

「チェルノブイリは人類の歴史を変えました。その感覚がどのように生まれたかお話しします。事故発生の直後、チェルノブイリに行きました。そこには軍用車があふれ、自動小銃を持った兵士がたくさんいました。私は彼らに『誰を撃つの?』と尋ねました。彼らはただぼうぜんとしており、その光景は今までとは別世界でした」

「まだ(原発事故の放射能汚染による)強制移住が始まる前、軍人たちが家の屋根を洗い、まきを洗い、村人はここの食べ物は口にするなと言われました。ジャガイモは5回ゆでろとも。人々は理解不能な世界に置かれたのです」

「ゾーナ(汚染地域)から避難させられた人たちは、鉄条網のそばで私にこう頼んできました。『家がそこにあるか、子猫が死んでないか見てきて』と。犬や猫は撃ち殺されました。動物が殺されるのを見るのは耐え難かった。人間に慣れて信じ込んでいたのに。まさに戦争に思えました」


――兵士の証言に「原子力の戦争」という言葉が出てきます。

「これは、従来とは違う戦争の姿です。強制避難を拒んだおばあさんを思い出します。私が兵士と一緒に訪ねた時、彼女は私にこう言いました。『これは本当に戦争なの? 私は第2次世界大戦を生き延びた。煙に包まれ、すべてが焼かれ、周りは敵国の兵士だった。でも、今はすべてが普段のまま。自国の兵士がいて、朝からネズミが駆け回っている』と。つまり、誰も理解できなかったのです。この新しい戦争の姿を」

――「軍事の原子力と、平和の原子力が、双生児だとは、誰も思い浮かばなかった」とも書いていますね。

「広島・長崎への原爆投下は戦時下でした。私たちはこのような戦争には備えをし、演習もありました。しかし『原子力の戦争』はまったく違う形をしていました」

「原子力の平和利用には何の心配もしていなかったのです。ソ連の学者は『赤の広場のサモワール(ロシアの湯沸かし器)のように安全だ』とも言っていました。クレムリンの赤の広場に原発を建てても大丈夫、という意味です」


――だから避難も遅れた。

「原子炉の黒鉛は2日間燃え続けました。とても美しく燃えたと言います。通常の火災とは違う何らかの発光があったそうです。近くの村の住民たちは子どもを連れ、その光景を見に行きました。中には物理の先生もいました。原発の排水をためる貯水池では、子どもたちが魚を釣っていたのを今でも覚えています」

――あなたも「平和の原子力」の安全を疑いませんでしたか。

「19世紀以降、『科学は人類を救う』と信じられてきました。でも、チェルノブイリで私は、ロシアや米国や日本の学者がぼうぜんとしている姿を見ました。チェルノブイリがこの信仰をぐらつかせました。ソ連ではこの時まで多くの教会は閉鎖されていましたが、この事故で教会が再開され、人々が駆け込みました。科学もマルクス・レーニン主義も答えを与えてくれなかった。神のみが残り、祈るしかなくなったのです」

     *

――作品に登場するのは一貫して、名も無き人々の証言ですね。

「私は決してインタビューはしません。人々に寄り添い、ただ生活について会話するのです。あらゆる声がシンフォニーのように響く、新しい形の長編小説です。ある人は5ページの語り。ある人は3、4行だけ。でも、これはとても重要です。たとえば、あるリクビダートル(事故処理作業者)はこう語ります。『庭はリンゴやナシが枝もたわわなのに、村中の誰も薦めてくれない』と。なぜなら、みんな知っているのです。もう放射能汚染で食べられないことを」

「人間には放射線に対処する準備はできません。目に見えないし、触ることもできないのです」

――チェルノブイリ後に公開された黒澤明監督の映画「夢」をご存じですか。原発が爆発する場面では、放射線に色が付いて可視化され、人々が逃げ惑います。

「その映画、見なければなりませんね。チェルノブイリでも村の住民たちは、放射線が見えたと話していました。ある人はうすら白く花壇で光っていたといい、別の人は『いや、青かった』と言いました。それがどんなだったか、お互いに論争もしていました」

「私はこれらすべてを記録しました。人間の意識がこの恐ろしい出来事にどう適応していくのか、とても重要でした。これはまったく新しい恐怖です。彼らは最初、それを戦争と比べました。戦争こそ人々にとって最も恐ろしい出来事だからです。でも、何か別のことが起きていることを理解し始めました。そこで放射線の色などの夢想が始まったのです」


――なぜ一般の民の声にこだわるのですか。

「誰からも一度も話を聞かれないような人々が20世紀の歴史を語る。それが重要でした。彼らは砂粒のように扱われた人たちです。彼らの話こそ本当に深いのです。主人公や英雄と呼ばれる人よりもはるかに興味深いものでした」

「それは『個人の真実』とでも言いましょうか。私が愛するドストエフスキーの作品と同様、それぞれの登場人物が自分の真実を語ります。私も、加害者、被害者、共産主義者、民主主義者などすべてに言葉を与え、それぞれが自らの真実を語るのです。私たちはみな、同じ時代を生きる多種多様な存在です。これらの『個人の真実』が集まって、時代の姿が作り出される。一人の主人公がすべてを知っているような設定は、もはやできないのです」


――原語版に「老婦人から母乳が出たと語られている。科学用語では『弛緩(しかん)』という現象」との下りがあります。この話を引用したロシアの学者の科学論文が、原子力関連の科学者たちから、あり得ない、と批判されたと聞きます。

「これは村で語られていた話です。このようなうわさは実際にありました。覚えています。私の本にも攻撃が来ました。でも、人々が支持してくれました。これは実際にあったことだと。その後、科学者たちは黙りました」

「政権は、あたかもすべてがコントロール下にあるかのように、あらゆることを一定の枠に押し込もうとします。(当時のソ連最高指導者の)ゴルバチョフ書記長は事故当初、すべてがアンダーコントロールだと語りました。何が起きたのか誰も分からないのに」

「だからこそ今、こうした『小さな人たち』の証言がとても重要なのです。私が書くことは私のファンタジーではありません。どんな天才でも、これらの人々の話を考え出すのは不可能です。たとえドストエフスキーでも」


――人間が説明しにくいことも起こりえるんだと。

「何が起きたのか誰もまだ理解できないころ、たとえば漁師は餌のミミズを一匹も見つけられなかったといいます。村からミミズが消えたのです。ミツバチは1週間、巣箱から飛び立たなかった。チーズ工場では2カ月間、酵母が働かずチーズができなかった。私たちには放射線を察知する能力がなかったのです。何かが起きた、でも理解できない。それほど奇妙なことが起きたのです」

     *

――福島をどう見ましたか。

「チェルノブイリと福島は一つの小さな鎖。科学は本来、その前には無力なのです」

「日本語版(岩波書店)が出版されて初めて日本を訪れたとき、原発のある北海道で本について議論しました。一人の男性が言いました。『だらしないロシア人だからあのような事故が起きた。日本では学者たちがすべて精密に計算している。我々にはありえない』と。すごい自信でした。その8年後です。福島が起きたのは」


――「チェルノブイリの祈り」の副題は「未来の物語」ですね。

「同様の事故が、いつかどこかで起こるとは思っていました。でも、こんなに早く起きるとは思いませんでした」

「北海道の男性にはその時、私はこう言いました。『私たちには自然と争う力はない』と。自然との調和でしか生きられない。自然との関係をどう築くのか、新しい哲学が必要なのです」

「人間は、自ら生み出した技術の力とは対等ではありません。東日本大震災の津波で巨大な船が宙に浮いているように見える映像に圧倒されました。その時、私は思いました。私たちは誰と戦っているのかと。最も文明的な国の一つである日本にこの時、がれきの山が残されたのです」


――新しい哲学とはどんなものですか。

「かつてメキシコに行ったとき、原住民がいました。彼らは食べるために必要なだけの動物を狩ります。彼らは自然に許しを請います。自然とのつきあい方がまったく違うのです。私たちが今のような生活を続けていると、難民はもっと増えます。まもなく環境の難民が生まれることでしょう。自然に対する人間の立ち位置を見直さなければなりません」

「数年前、北極に近いヘイス島に行ったとき、流れ着いた大量のペットボトルを見て恐ろしくなりました。人類の活動の廃棄物はどれほどなのか、痛感しました」

     *

――核と決別できますか。

「私は、今すぐ原子力の禁止を求める立場ではありません。将来的には他のエネルギーに代わると思いますが、それはまだ現実的ではありません。ただし、すべては厳しいコントロール下でなければなりません。3月のベルギーのテロでは、原発を破壊しようとしたと伝えられています。もちろん、人類は原子力に代わるエネルギーに到達するはずです」


――人類はチェルノブイリを克服できますか。

「原子力が危険なものであるということを知り、それを意識に刻んだことは重要だと思います。でも、哲学や文学のような形で深く思想化されているでしょうか。多くのことがよく分からないまま残されました。今もまだチェルノブイリには勝てないままでいます」


――約10年の国外生活の後、強権体制のベラルーシに戻りました。なぜですか。

「この旧ソ連の小国が何も変わっていないからです。私が書きたい『主人公』の人々はベラルーシにいます。ルカシェンコ大統領の全体主義的な政権下で、反核運動も抑え込まれています。ベラルーシ語での出版もできません。でも、ロシアでは5冊とも出版され、多くの人がそれを買ってベラルーシに持ち込んでくれます」

「この危険な強権体制のトップ層は、教養の足りない人々が占めています。もちろん大統領は、チェルノブイリとは何なのか、今もまったく理解できていません」

     ◆


Svetlana Alexievich 1948年生まれ。ベラルーシ国立大学ジャーナリズム学部卒。新聞や雑誌の記者を経て、第2次大戦のソ連従軍女性の証言による「戦争は女の顔をしていない」(85年)で注目される。主著の5作品はいずれも、苦難を背負った民衆の声で構成される。邦訳は「チェルノブイリの祈り」「戦争は女の顔をしていない」「ボタン穴から見た戦争」は岩波現代文庫。「セカンドハンドの時代」は岩波書店から今年9月に発売予定。「アフガン帰還兵の証言」(日本経済新聞社)は品切れ。


■取材を終えて
記者出身の彼女からは、何度も「福島ではどうなの」と尋ねられた。事故前の安全神話。事故現場の正確な実態を把握できないまま「アンダーコントロール」を唱える政権……。彼女が振り返る旧ソ連の姿は、今の日本の姿にそのまま重なるように思えた。核の被害は人知を超える。その教訓を将来に生かさなければならない。「未来の物語」という副題の意味は重い。
(核と人類取材センター事務局長・副島英樹)




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