http://www.asahi.com/articles/DA3S12325871.html
ウクライナのチェルノブイリ原発で史上最悪の事故が起きてから26日で30年を迎える。
背丈を超える枯れ草をかき分けて進むと、点在する崩れた赤れんがが見えてきた。小学校の校長だったスベトラーナ・カリストラトワさん(68)は「ここだったかな?」と迷いつつも、なんとか元自宅にたどりついた。5年ぶりだった。
原発の西約40キロにあった旧ボロービチ村。マツとシラカバに囲まれた465戸に約1100人が住み、コルホーズ(集団農場)で働くのどかな農村だった。
村の歴史は1986年4月26日に止まった。放射能の汚染で住めなくなった。
記者は15年前も一緒にこの旧村を訪れた。当時はスベトラーナさんの家は形をとどめ道路もわかった。
事故から30年を経た今、屋根が落ちて形が崩れ、れんが壁の間には床材、屋根材が折り重なっていた。スベトラーナさんは「この玄関の前にバラを植えていた。ここが居間……」と言いながら泣き出した。
家は事故直前に完成した。赤い屋根の2階建ては家族4人の夢だった。「ここで結婚し、子どもを育てた。私の人生の大事なことはすべてこの村にある」
一緒に訪れた次男のボロージャさん(37)が事故前に家の庭に植えたシラカバは40メートルほどの大木に育っていた。近くにある行政庁舎の床には新聞や書類が散らばっていた。村は森に戻りつつある。
スベトラーナ・カリストラトワさん(68)が住んでいた旧ボロービチ村は今も立ち入り禁止だ。春のイースター(復活祭)のころ墓参が認められている。お墓は年々、草で埋まっていく。
旧村の住民は、新たに建設された四つの村に分かれた。その一つが、ウクライナの首都キエフの南西30キロにある新ボロービチ村だ。旧村と同じ名前がつけられ、原発事故の4カ月後、109戸で始まった。
新しい村は同じ形の家が並ぶ。集会所にはお年寄りを中心に約40人が集まっていた。「旧村が恋しいですか?」と聞くと、ニーナ・テレシェンコさん(78)は「多くの人は帰りたいと思っていた。しかし、もう死んでしまった」。そう言って、1枚の写真を見せた。旧村で生まれた娘レイサさんが5歳のころのものだ。1994年に白血病でなくなった。14歳だった。
その後、何度か訪問したが、故郷への熱は引いていった。帰還できないことがわかるとともに、旧村を知る人たちが減った。いま村に50歳以上の男性はほとんどいないという。
村長のリュドミラ・サブチェンコさん(34)は「村の雰囲気は変わった」という。「老人は昔の村を懐かしがるが、若い人はキエフに通勤できるここの生活を好んでいる」。旧村と縁のない新住民も増えた。
老人の死とともに「望郷」も消えつつある。同じ村にいても共通のふるさとをもたない。30年という時間が世代間に断絶をつくっていた。
スベトラーナさんは2005年まで約15年間、新ボロービチ村の村長を務め、すべてを見てきた。
旧村を離れた直後、避難者は一つの住宅に2、3家族が入った。殴り合いのけんかも起きた。
91年には被災者支援を担っていた旧ソ連が崩壊した。90年代半ばの経済危機では集団農場の経営が悪化、給料遅配が続いた。
13年前に夫を病気で亡くした。3年前には母をみとった。今は子どもたちを支える慈善基金の役員をしているが、「国内外の関心も薄れ、支援が集まらない」。
旧村出身者は最近、新村の空き家に「博物館」をつくった。かつて使った農機具、民族衣装、伝統の刺繍(ししゅう)、記念写真などを飾る。
そこに1枚の紙がある。
「1986年に疎開者357人で村が始まった。2016年までに165人が死亡、94人が誕生。がんによる死亡は21人……」
自分たちの苦難の記憶までが断絶しないよう、刻みつけていた。
チェルノブイリ原発から北東へ180キロにあるロシア・ブリャンスク州のノボズィプコフ市。人口4万2千人。2人の娘の母オクサナ・イナシェフスカヤさん(33)は「ここは避難ゾーンでした」と話す。
同市は30年前の事故で、「強制移住地域」に次いで2番目に汚染度が高い「本来は移住すべき地域(避難ゾーン)」とされた。しかし、旧ソ連の崩壊、市の規模が大きかったことなどで移住は頓挫した。
市民は生活を続けた。農業、畜産は禁止され、小麦加工、肉、バター工場の閉鎖で雇用が消えた。地元の農産物を食べられない、木を燃やせないなどの制約もあったが、様々な優遇措置を受け、域外からの食料品を買って暮らしてきた。
この生活が昨年10月に大きく変わった。ロシア政府が汚染地の分類を見直し、同市の多くは汚染度が3番目の「移住してもいいし、住んでもいい地域」になったからだ。優遇措置が切り下げられた。
住民は怒っている。補償金、住宅の税金免除、有給休暇の増加など優遇は「4人家族で収入の2割相当」といわれた。それがほぼ半減する。年金受給の開始も5年延びる。
産後の3年間、働けない母親に出る手当も削減される。この手当は額も大きく生活の支えだ。「母親の会」が大反発した。議長を務めるオクサナさんは「行政庁舎前で訴えるなど反対し、7月までは実施しない約束をとりつけた」。
行政当局は「優遇措置に依存した生活を変えよう」という。だが、そもそも給料をもらえる職が少ない。農業、畜産の禁止や工場の閉鎖は今も続いている。
根本的な問題は、放射能が土地と生活を分断していることだ。そこが変わらないまま、新たな線引きでさらに追い詰められる。「今さら『きれい』と言われても困る」が住民の思いだ。
今回の見直しの背景にはロシアの財政難があるとされる。今後、どこの汚染地でも直面する問題だ。
地方議員のドミトリー・シェフツォフさんがある学校に案内してくれた。幼稚園児と小学生が10人ずつ。閉鎖を迫られている。若者が仕事を求めてモスクワなど大都市に出るため、子どもの減少が止まらない。「相次ぐ学校の閉鎖は地域の衰退の象徴。何とか守りたいが、根本的にはどうすればいいのだろう」
チェルノブイリの特徴は畑や森の大規模除染をせず、疎開した土地への帰還を原則、認めないことだ。住民は家と土地から引き離され、地域コミュニティーは崩壊した。慣れた職を失い、精神的に追い詰められた。
ただ、故郷への思いはさまざまだ。「ここで死んでもいい」と汚染された無人の村に戻った「サマショール」(わがままな人)と呼ばれる老人もいれば、「首都で近代的住宅を与えられて幸せ」という若い人もいる。
日本は「できるだけ除染をして帰還してもらう」という政策だ。除染に力を入れるのは経済力があるからだが、その力を被災者の多様な生き方を支えることにも向けてほしい。放射能が残る中、故郷に帰りたい人もいれば、新しい場所での生活を望む人もいる。どちらを選ぶのも基本的な権利だ。
今回の取材では年月の経過を実感した。90年代に話を聞き、一緒に写真を撮った老人たちはもういない。30年は人間では一世代。人生は全く変わってしまう。一方、主な汚染源のセシウムでは半減期1回分。まだ半分が残る。人生の短さ、放射能影響の長さの両方を考えた対策が必要だ。
チェルノブイリは厳しい風化の中にある。経済低迷や紛争で関係国の財政状況は悪く、様々な支援が削られている。日本もやがて同じような悩みにぶつかるだろう。チェルノブイリの今をよく見ておきたい。(竹内敬二)
◆キーワード
<チェルノブイリ原発事故> 1986年4月26日にチェルノブイリ原発4号炉で発生した。外部電源を失った場合のテストで出力を下げて運転中に原子炉が暴走して爆発。炉心がむき出しになり火災が続いた。10日間で放出された放射性物質は東京電力福島第一原発事故の約6倍とされる約520万テラベクレル(テラは1兆)。欧州の広範囲も汚染され、一部は日本にも届いた。高濃度汚染地域はウクライナ、ベラルーシ、ロシアにまたがり、避難者は約40万人。原発の周囲約30キロ圏などは、今も立ち入りが厳しく制限されている。
◇事故から30年になるチェルノブイリ原発と被災地の今を3回にわたって報告します。次回は廃炉、その次は健康影響をとりあげます。
背丈を超える枯れ草をかき分けて進むと、点在する崩れた赤れんがが見えてきた。小学校の校長だったスベトラーナ・カリストラトワさん(68)は「ここだったかな?」と迷いつつも、なんとか元自宅にたどりついた。5年ぶりだった。
原発の西約40キロにあった旧ボロービチ村。マツとシラカバに囲まれた465戸に約1100人が住み、コルホーズ(集団農場)で働くのどかな農村だった。
村の歴史は1986年4月26日に止まった。放射能の汚染で住めなくなった。
記者は15年前も一緒にこの旧村を訪れた。当時はスベトラーナさんの家は形をとどめ道路もわかった。
事故から30年を経た今、屋根が落ちて形が崩れ、れんが壁の間には床材、屋根材が折り重なっていた。スベトラーナさんは「この玄関の前にバラを植えていた。ここが居間……」と言いながら泣き出した。
家は事故直前に完成した。赤い屋根の2階建ては家族4人の夢だった。「ここで結婚し、子どもを育てた。私の人生の大事なことはすべてこの村にある」
一緒に訪れた次男のボロージャさん(37)が事故前に家の庭に植えたシラカバは40メートルほどの大木に育っていた。近くにある行政庁舎の床には新聞や書類が散らばっていた。村は森に戻りつつある。
4月26日で事故から30年を迎えるチェルノブイリ原発4号炉(中央)。 老朽化した「石棺」を覆う新シェルター(右)の建設が進む。 原発から約3キロにあるプリピャチは原発職員の街だったが、全住民が避難。 市街地の集合住宅(手前)は廃虚と化し、森にのみ込まれてゆく =2日、ウクライナ、杉本康弘撮影 |
(1面から続く)
「帰りたい」、人も思いも消えてゆく ■@村ごと離散したボロービチ
http://www.asahi.com/articles/DA3S12325819.html?ref=nmail_20160424moスベトラーナ・カリストラトワさん(68)が住んでいた旧ボロービチ村は今も立ち入り禁止だ。春のイースター(復活祭)のころ墓参が認められている。お墓は年々、草で埋まっていく。
旧村の住民は、新たに建設された四つの村に分かれた。その一つが、ウクライナの首都キエフの南西30キロにある新ボロービチ村だ。旧村と同じ名前がつけられ、原発事故の4カ月後、109戸で始まった。
新しい村は同じ形の家が並ぶ。集会所にはお年寄りを中心に約40人が集まっていた。「旧村が恋しいですか?」と聞くと、ニーナ・テレシェンコさん(78)は「多くの人は帰りたいと思っていた。しかし、もう死んでしまった」。そう言って、1枚の写真を見せた。旧村で生まれた娘レイサさんが5歳のころのものだ。1994年に白血病でなくなった。14歳だった。
故郷のボロービチ村から避難したスベトラーナさんは、かつて住んでいた家の2階が崩れ落ち、 居間には木が生い茂った様子を目にして涙した=3月22日、ウクライナ 杉本康弘撮影 |
■世代で断絶
記者がこの新ボロービチ村を初めて訪れたのは90年。「早く村に帰ろう」という熱気があった。老人たちは「原発事故から4年が経つのに放射能は減らないという。本当だろうか」と問いかけてきた。その後、何度か訪問したが、故郷への熱は引いていった。帰還できないことがわかるとともに、旧村を知る人たちが減った。いま村に50歳以上の男性はほとんどいないという。
村長のリュドミラ・サブチェンコさん(34)は「村の雰囲気は変わった」という。「老人は昔の村を懐かしがるが、若い人はキエフに通勤できるここの生活を好んでいる」。旧村と縁のない新住民も増えた。
老人の死とともに「望郷」も消えつつある。同じ村にいても共通のふるさとをもたない。30年という時間が世代間に断絶をつくっていた。
■記憶を刻む
スベトラーナさんは2005年まで約15年間、新ボロービチ村の村長を務め、すべてを見てきた。旧村を離れた直後、避難者は一つの住宅に2、3家族が入った。殴り合いのけんかも起きた。
91年には被災者支援を担っていた旧ソ連が崩壊した。90年代半ばの経済危機では集団農場の経営が悪化、給料遅配が続いた。
13年前に夫を病気で亡くした。3年前には母をみとった。今は子どもたちを支える慈善基金の役員をしているが、「国内外の関心も薄れ、支援が集まらない」。
旧村出身者は最近、新村の空き家に「博物館」をつくった。かつて使った農機具、民族衣装、伝統の刺繍(ししゅう)、記念写真などを飾る。
そこに1枚の紙がある。
「1986年に疎開者357人で村が始まった。2016年までに165人が死亡、94人が誕生。がんによる死亡は21人……」
自分たちの苦難の記憶までが断絶しないよう、刻みつけていた。
ベラルーシ南部・ゴメリ州の立ち入り禁止ゾーン付近では、事故の後始末が行われていた。 廃村の汚染された家や森を、若者らが勝手に入っていたずらをしないよう、 ブルドーザーで潰して埋め立てる=3月30日、杉本康弘撮影 |
■「汚染度減」でも遠い自立 @優遇減ったノボズィプコフ
放射能レベルが下がった町で問題が起きている。チェルノブイリ原発から北東へ180キロにあるロシア・ブリャンスク州のノボズィプコフ市。人口4万2千人。2人の娘の母オクサナ・イナシェフスカヤさん(33)は「ここは避難ゾーンでした」と話す。
同市は30年前の事故で、「強制移住地域」に次いで2番目に汚染度が高い「本来は移住すべき地域(避難ゾーン)」とされた。しかし、旧ソ連の崩壊、市の規模が大きかったことなどで移住は頓挫した。
市民は生活を続けた。農業、畜産は禁止され、小麦加工、肉、バター工場の閉鎖で雇用が消えた。地元の農産物を食べられない、木を燃やせないなどの制約もあったが、様々な優遇措置を受け、域外からの食料品を買って暮らしてきた。
この生活が昨年10月に大きく変わった。ロシア政府が汚染地の分類を見直し、同市の多くは汚染度が3番目の「移住してもいいし、住んでもいい地域」になったからだ。優遇措置が切り下げられた。
住民は怒っている。補償金、住宅の税金免除、有給休暇の増加など優遇は「4人家族で収入の2割相当」といわれた。それがほぼ半減する。年金受給の開始も5年延びる。
産後の3年間、働けない母親に出る手当も削減される。この手当は額も大きく生活の支えだ。「母親の会」が大反発した。議長を務めるオクサナさんは「行政庁舎前で訴えるなど反対し、7月までは実施しない約束をとりつけた」。
行政当局は「優遇措置に依存した生活を変えよう」という。だが、そもそも給料をもらえる職が少ない。農業、畜産の禁止や工場の閉鎖は今も続いている。
根本的な問題は、放射能が土地と生活を分断していることだ。そこが変わらないまま、新たな線引きでさらに追い詰められる。「今さら『きれい』と言われても困る」が住民の思いだ。
今回の見直しの背景にはロシアの財政難があるとされる。今後、どこの汚染地でも直面する問題だ。
地方議員のドミトリー・シェフツォフさんがある学校に案内してくれた。幼稚園児と小学生が10人ずつ。閉鎖を迫られている。若者が仕事を求めてモスクワなど大都市に出るため、子どもの減少が止まらない。「相次ぐ学校の閉鎖は地域の衰退の象徴。何とか守りたいが、根本的にはどうすればいいのだろう」
避難ゾーンだった場所に住むオクサナさん(左)。 昨年、汚染度が低く分類されたことで、国からの手当が減ることに反対している。 この日も微熱で体調を崩していた次女(左から2人目)と長女(右)は甲状腺肥大の診断を受けている =4月6日、ロシア 杉本康弘撮影 |
■<視点>故郷との距離、多様な選択支えて
原発事故の実態は被災地の日常にある。そう思って1990年からチェルノブイリに通っている。5回目となる今回は雰囲気が違った。「福島はどうなっていますか?」という逆質問と同情が多く寄せられた。チェルノブイリの特徴は畑や森の大規模除染をせず、疎開した土地への帰還を原則、認めないことだ。住民は家と土地から引き離され、地域コミュニティーは崩壊した。慣れた職を失い、精神的に追い詰められた。
ただ、故郷への思いはさまざまだ。「ここで死んでもいい」と汚染された無人の村に戻った「サマショール」(わがままな人)と呼ばれる老人もいれば、「首都で近代的住宅を与えられて幸せ」という若い人もいる。
日本は「できるだけ除染をして帰還してもらう」という政策だ。除染に力を入れるのは経済力があるからだが、その力を被災者の多様な生き方を支えることにも向けてほしい。放射能が残る中、故郷に帰りたい人もいれば、新しい場所での生活を望む人もいる。どちらを選ぶのも基本的な権利だ。
今回の取材では年月の経過を実感した。90年代に話を聞き、一緒に写真を撮った老人たちはもういない。30年は人間では一世代。人生は全く変わってしまう。一方、主な汚染源のセシウムでは半減期1回分。まだ半分が残る。人生の短さ、放射能影響の長さの両方を考えた対策が必要だ。
チェルノブイリは厳しい風化の中にある。経済低迷や紛争で関係国の財政状況は悪く、様々な支援が削られている。日本もやがて同じような悩みにぶつかるだろう。チェルノブイリの今をよく見ておきたい。(竹内敬二)
◆キーワード
<チェルノブイリ原発事故> 1986年4月26日にチェルノブイリ原発4号炉で発生した。外部電源を失った場合のテストで出力を下げて運転中に原子炉が暴走して爆発。炉心がむき出しになり火災が続いた。10日間で放出された放射性物質は東京電力福島第一原発事故の約6倍とされる約520万テラベクレル(テラは1兆)。欧州の広範囲も汚染され、一部は日本にも届いた。高濃度汚染地域はウクライナ、ベラルーシ、ロシアにまたがり、避難者は約40万人。原発の周囲約30キロ圏などは、今も立ち入りが厳しく制限されている。
◇事故から30年になるチェルノブイリ原発と被災地の今を3回にわたって報告します。次回は廃炉、その次は健康影響をとりあげます。
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