2016/04/14

(核リポート)事故から30年、チェルノブイリ法に学ぶ

2016年4月14日 朝日新聞
http://www.asahi.com/articles/ASJ4F6V6LJ4FPTIL01Z.html 

旧ソ連・チェルノブイリ原発事故から4月26日で30年を迎える。事故の5年後、被災地は年1ミリシーベルトを超える被曝(ひばく)線量が推定される地域の住人の移住などを国が支援する通称「チェルノブイリ法」を定めた。一方、東京電力福島第一原発事故から5年が経った日本では、年20ミリシーベルトを下回ったら避難指示を解除し、住民を帰そうとしている。同法に日本が学ぶべき点も多いとする研究者・尾松亮氏に、同法の理念や仕組みを聞いた。

チェルノブイリ被災者保護制度の紹介と政策提言に取り組む尾松亮氏 

【経緯】
――チェルノブイリ法ができたのは事故から5年後の1991年でした。

「当時のソビエト連邦を構成した共和国のウクライナとベラルーシがまず制定し、少し遅れてロシアもつくりました。基本的な内容は同じで、事故の被災者を国の責任で保護するものです。1986年の事故直後、半径30キロ圏内で強制避難が行われましたが、放射性物質は30キロを越えて飛散しました。その汚染状況を示した地図が89年に公開され、汚染を知った人々が、私たちも補償せよ、と声を上げたのがきっかけです」

「事故の収束作業者らも、多量の被曝をしたにもかかわらず、補償はおざなりでした。それで収束作業者やその遺族、そして被災地の住人らが、『チェルノブイリ同盟』という団体をつくり、権利擁護を求める運動を始めました。おりしも、ソ連で初めて民主化された選挙が行われ、被災地住民や作業員らを代表する議員が当選し、法律をつくる大きな流れができました」

【範囲・対象】
――制定された法律だと、支援対象はどうなっているのですか。

「年1ミリシーベルトを超える追加被曝を余儀なくされる地域を、被災地として認めました。実際には土壌汚染の濃度で定められています。この年1ミリシーベルトはチェルノブイリ法ができる前年の90年11月、ICRP(国際放射線防護委員会)が平常時の公衆の被曝限度について、『年1ミリシーベルト』と勧告したのを無視できなかったからです」

――年20ミリシーベルトを下回れば住民を帰そうという日本と水準がかなり違います。

「ICRPが2007年になって示した、事故からの復旧期の参考レベル『年1~20ミリシーベルト』の上限を日本政府は採用したんですね。ちなみに、旧ソ連の事故直後の避難基準は年100ミリシーベルトでしたが、翌年に年30ミリシーベルトに、さらにその翌年には年25ミリシーベルトに下げました。そして、緊急時の基準をいつまでも続けられない、平常時のルールに戻そう、という議論をして、91年のチェルノブイリ法により、年1ミリシーベルトで決着したのです」

「ウクライナなど3カ国が事故から5年後に、住民が長期的に住む、そこで生まれ育つ子がいることも前提に年1ミリシーベルトと決めたことを考えれば、日本も今の年20ミリシーベルトの基準を、どうやって平常時の基準に下げるのかが問われています。確かに、日本政府も除染などにより長期的に1ミリシーベルトにする目標を掲げていますが、いつまでに、というのを明示しなければ、実効性はないと思います」


【支援の中身】
――チェルノブイリ法に基づく支援策には、どんなものがあるのですか。

「一番大事なのは、健康診断です。1~2年に1度など定期的に、対象の人々すべてが生涯にわたり、健康診断を無料で受けられるという規定があります。事故から30年がたったいまも続けられています。医薬品の無料支給や一部補助、また、非汚染地域において一定期間、療養する費用の全額もしくは一部が出されます」

「避難した人には、元の家や菜園など、当時の価格で算定して補償されました。それまで社会主義で家屋などが市場で売買されることはなかったので日本の賠償との比較は難しいのですが。避難先では、被災者を公営住宅に優先入居させるといった形で、国が住宅確保にも責任を持ちました。仮設ではなく、恒久住宅です。国は、職探しの支援もしました。ただ、市場経済への移行で、理想的な職場がなかなか見つからず、求職期間中、平均月額給与に見合った給付金を払うことが多かったようです」

【最近の状況】
――厳しい財政状況の中で各国とも努力した。

「例えばウクライナだと、90年代末の通貨危機の後、必要な予算の2割以下しか確保できなかった時もあったといいます。ただ、注目しないといけないのは、健康診断は対象者の9割5分の人がこれまで受け続けているのです。健康にかかわる部分、とくに子どもを中心に予算をつけようとしてきたんですね」

「実際、被災者の声を聞くと、給付金はかなり削減されてしまい、2、3回外食したらおわりという声も聞きました。それでも、この法律があって、ソ連崩壊後の経済混乱期を、避難・移住者であっても、なんとか生活することができたと語っていました」

【自主避難者】
――ところで、チェルノブイリ法と日本では自主避難者の扱いが大きく違うと。

「チェルノブイリ法で避難者は3グループあります。まず半径30キロ圏の強制避難者。年5ミリシーベルトを超える地域も移住が義務づけられました。そして年1ミリシーベルトを超える地域の人々も、『避難の権利』が認められました。法律の言葉を直訳すれば、『保証された自主的移住者』となります。この権利に基づく移住も、例えばウクライナでは05年までに1万5千世帯近くあったとの記録があります。一世帯4人とすればざっと6万人です。もっとも近年の経済の混乱に伴う予算難で、住宅確保が間に合わず、長らく順番待ちになっているという話がロシア語メディアによく出てきます」

――日本では、自主避難者に対する支援策が乏しい。
「チェルノブイリ法では、被曝線量が年1ミリシーベルト以上であれば、避難する選択肢が与えられ、一定の状況を満たせば恒久住宅が与えられたり、雇用支援がされたりしました。日本では、避難指示を受けて避難した人か、避難指示がなく避難した人かの二つに分けられますが、後者に対して国が保護する姿勢はまったくなかった。この日本でも、チェルノブイリ法を参考に『子ども・被災者支援法』が2012年にできたのですが、自主避難者に対して、実質的な助けとはなっていません」

【国の責任】
――国の姿勢というか責任感の違いを感じてしまいます。

「チェルノブイリ法は国が責任をもって被災者を保護するものですが、それはチェルノブイリ原発が国営だったからではありません。事故原因は公的にはオペレーターの人為的なミスとされています。同法はそれとは別に、広い地域が汚染され、大勢が避難を余儀なくされている以上、国として放っておくことはできない。だから、長期的に被災者を保護する責任は、国にあると明確に定めていることです。日本政府が使う『社会的責任』というあいまいな言葉で逃げていません」

「チェルノブイリ法でもう一つ大事なのは、国が支援対象とする年1ミリシーベルトの被曝線量の基準について、国民代表である議会が法律に書き込んだことです。福島第一原発事故のあと、日本では基準を政府が定めていますが、結局、官僚の手によるものではありませんか。官僚は私たちが選んだわけではありません。同法で重要なのは、民選の議員たちがこの数値を定めたことです。決めるのは私たち自身であるべきです」

【最後に】
――今後、日本は避難者に対する保護・支援策をどうするべきでしょう。

「日本では、17年3月末で自主避難者への住宅の無償提供が打ち切られ、多くの方が望まないタイミングでの帰還を求められる状況になります。繰り返しになりますが、チェルノブイリ法は、当時のソ連が何もしてくれないので、一共和国、いわば一地方議会だったウクライナなどの議会が、自分たちの手で法律をつくり、自分たちを守ろうとしたのです。日本でも、原発事故の避難者がいる地方自治体の議会が、その地に避難せざるをえなかった人々、つまりいま、同じ地域に住んでいる人々の権利をどう保障するのか、それを考えて欲しいと思うのです。その際、チェルノブイリ法のアイデアが改めて役に立つと思います」

     ◇

尾松亮(おまつ・りょう)氏 1978年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科修士課程修了。モスクワ国立大学に留学。通信社、民間シンクタンクに勤務。チェルノブイリ被災者保護制度の日本への紹介と政策提言に取り組む。2012年には政府のワーキングチームで「子ども・被災者支援法」の策定に向けた作業にも参加。単著に「3・11とチェルノブイリ法」、共著に「原発事故 国家はどう責任を負ったか」(いずれも東洋書店新社)。

     ◆
小森敦司(こもり・あつし)1987年入社。名古屋や東京の経済部で、自動車や金融、経済産業省を担当。ロンドン特派員を経て、社内シンクタンク「アジアネットワーク」で地域のエネルギー協力策を研究。現在はエネルギー・環境分野を担当し、特に原発関連の執筆に力を入れる。単著に「資源争奪戦を超えて」「日本はなぜ脱原発できないのか」、共著に「エコ・ウオーズ~低炭素社会への挑戦」など。(小森敦司)



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