2016/04/26

(核の神話:23)「沈黙を強いる」日本社会、気がかり

2016年4月26日 朝日新聞
http://www.asahi.com/articles/ASJ4H7H66J4HPTIL02P.html

日本で生まれ育ち、米国で教えてきたシカゴ大学名誉教授(日本文学)のノーマ・フィールドさん。原爆投下や原発事故の「被ばく者」に寄り添いながら、日本社会に発言を続けている。いま、福島原発事故の被害者らに「沈黙を強いるメカニズム」が気になって仕方がないという。
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■シカゴ大学名誉教授(日本文学)ノーマ・フィールドさん
5年前に福島原発事故が起きた時、シカゴでテレビやネットを見ていて、ある直感にとらわれました。これは、これから余生を捧げる事柄だっていう直感です。

もしかしたら、10歳の時に初めて東京の家にテレビが入って、広島の原爆投下直後の映像を見た時の衝撃があってのことかもしれません。こんな大変なことが起きたのに、大人はなぜ平気で毎日暮らしてられるんだろうって、10歳の時に思ったんですね。日本とアメリカが再び戦争をしたら大変。家は日本ですが、学校はアメリカの世界で生きる自分にできることは何か。それは、大きくなったら日本について英語で教えることじゃないかと。それで戦争が阻止できるかのように、10歳の頭で考えたのでした。とっくの前に忘れていた眠っていた思い。もしかしたら福島の衝撃が、10歳の時に感じたものを呼び覚ましたのかもしれません。

ノーマ・フィールドさん=米ワシントン州シアトル、田井中雅人撮影 

ある風景が頭に焼き付いています。それは(今年3月12日の)「311甲状腺がん家族の会」の発足記者会見です。ユーチューブで動画を2時間。目が離せませんでした。福島県民健康調査(「核の神話:18」で紹介)で小児甲状腺がんと診断された子どものご家族に話を聞くのは難しいと聞いていたので、画期的だと思ったんです。

ところが、実際見てみると、会見に出た保護者、お父さん2人なんですが、福島からスカイプでの参加なんです。「カミングアウト(告白)」といわれているものが、顔を見せずに、声も操作されて。それで、「白い服の方」とか「黒い服の方」と司会者に指されるんです。「カミングアウト」と称しても、こういう形を強いる日本の社会のおぞましさ。

会見に参加したジャーナリストがお父さん2人に対して「東電(東京電力)に遠慮している話し方」と感想を述べたとき、やっぱり他の人にもそう聞こえるのだ、と。スカイプで顔を見せずにあの場に出ることが要した勇気って、私の想像を絶するものに違いない。あれが現時点での限界だったんでしょう。これからは、安心して心の内を話せる仲間が増えて、まずは精神的に支え合うことが大事。批判はその先なのかもしれません。



福島に限ったことではないけれども、一番気になってきたのは、被害者たちの被害性からの自己疎外です。自分で自分の感情や、大切なものを否定しなければならない。そういう効果が最初からあって、それがどんどん強化されている気がして。家族会のようなものが発足すれば、必ずバッシングが起こる。だから、自分が被害者であるということを堂々と言えない人が圧倒的多数でしょう。自分の被った被害を認めない、認めることができない、認めようとしない。それこそが自己疎外です。そこが最初から気になっていました。(2020年の)東京オリンピックが近づくにつれて、もっとひどくなると思うんです。

上からの圧力は見えやすい。でも、もっと怖いのは、被害者同士がお互いを制することです。それなしには上からの圧力も効かないでしょう。同じような不安を抱えている人たちがその苦しさから逃れるためには、まわりもその不安を表明しないことを欲するじゃないですか。私の心の寝た子を起こさないで、というふうに。そういう素地というか装置がすぐに活性化されるように暮らしのすみずみまで張り巡らされているような気がしてならないのです。

「風評被害」についても、福島では本当の被害はないっていうのが前提ですよね。風評さえなければ被害もないという考え方です。ぜんぶ消費者の責任みたいになってしまっている。それが自己増殖していく。「風評被害」だけでなく、福島で唱えられているキーワードがありますね。「復興」とか、もうちょっと新しい「レジリエンス(回復力が強い)」とか。本当の元気の素にはならないけれど、そうであるかのように振り回されるのです。

     *

日本の原発がこれからどうなっていくかわからないけれども、地裁レベルの判決や差し止めや、たとえ覆されるとしても、ぽつぽつ全国の地裁で再稼働を遅らせる動きがあればいいと思います。そうすると、個々の裁判官にとって、どこか心に響くものがあるんじゃないか、と。あそこで、あいつにこれができたんだ、みたいに。それが、ひとつの動きとして目に見えるようになったらなんとすばらしいか。裁判闘争って効率が悪いけれども、いろんな証拠が出てくるし、法廷が醸し出す尊厳もある。とにかく福島原発告訴団が頑張り抜いて、やっと刑事裁判が開かれることになったので、いろんな人に注目してほしい。関心を示して、公表しないと生かされない。メディアと市民の監視が大事なんです。東京オリンピックが近づいたら、もっともっと福島がなかったかのようにされて、声を上げるのが大変になるでしょう。市民もメディアもそれを意識しないといけません。

福島のお母さんたちの今後についてですが、福島県の外に出たお母さんたちが語っていますよね(「核の神話:20」で紹介)。けれども、そこにまた、それぞれの分断の手が入っています。いつまで「避難者」って言っているのか。はずかしくないのか。はっきり「永住者」と言いなさいとか。それをまた内面化して、これからは自分のことを避難者と言わないで永住者って言おう、とか。切なくなります。

でも、仲間やグループがあるかないかは決定的です。仲間の手を絶対離さない。「311甲状腺がん家族の会」だったら、電話番号があるじゃないですか。

あのご家族、保護者の方2人が、非常に限られた形ですけど、社会に登場したことによって、多くの家族が少なくとも電話をかけるだけの勇気を奮い出すことができるかもしれません。そうあってほしいですね。そういう人たちが増えれば増えるほど、何かが変わってくるはずです。

自分の不安を自分だけの心におさめておくエネルギーは大変なものです。それだけで病気になってもおかしくない。精神的な消耗って身体にとっても負担です。だから放射能のことを心配するほうがいけないんだ、という専門家もいますが、電話1本で、それだけでも、ずっと楽になると思う。

精神的な負担は賠償されたほうがされないよりはいいですが、孤立しているかぎり楽にはなれないでしょう。自分の生命、子どもの生命に対する不安を軽減するのはひとりでできることではありません。だから、自分や家族だけで不安を抱え込むことの精神的なコストを、文筆家の方たちにもっと書いてほしいと思います。不安を否定することのコストには金額をつけることはできませんが、膨大なコストだと思うのです。

「家族会」の記者会見に出席した世話人のひとり、お医者さんの牛山元美さんですか、彼女はとても爽やかで頼もしいと思いました。こういうお医者さんがいることがもっと知られたら、電話をかける動力になるかもしれません。

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2011年の(福島第一原発)事故直後は、これはもう日本から新しい文明論を出すしかないと思ったんです。それが、(私のような)文化系の人間がほんの少し貢献できることかなと思っていました。そして、日本が誇りにしてきた技術も、新しいものへと向けられていたら、どれほど世界的に期待されたことか。雇用も生まれます。それで大変な悲しみと苦労はもちろんあっても、多くの人が気持ちよくがんばれたはずです。でも、原発を再稼働させることからもわかるように、正反対になってしまっている。

東京オリンピックに向けた、帰還政策のような「復興」プロパガンダが目立つなか、いろいろ声をあげようとしている人、また恐る恐るだれかにつながろうとしている人が、たくさんいると思うんです。そういう人たちの力になるようなかたちで、存在を可視化することができないでしょうか。可視化ってほんとうに大事でしょう。

「家族会」の記者会見で顔は出さなくても、そこにいる。顔が見えないぶん、手のしぐさに注意が引かれて、そこから緊張感が伝わってくる。あの2人のお父さんの身体性。かなり違っていましたね。その対比も面白いと言ってしまうと失礼なんですけれど、違いが見えてよかったと思います。手から、操作された声から、いろいろ伝わってくるものがあった。とにかく出てきてくださったことが大事なんです。

あの記者会見で、1時間ほど過ぎたあたりで出てきた白い帽子の女性がいました。広島で被爆したジャーナリストの小野瑛子さん。自分は甲状腺がんも肺がんも患い、それでも生きてこられたのは、仲間がいることと被爆者手帳があることだったと思います。福島でも「被ばく者手帳」をつくる会を立ち上げた方だそうですね。けれども、福島では「被ばく者手帳」と呼ぶかどうか、広島と同じことが起きてしまうのではないかという議論もあると聞きます。差別が怖いんですね。

3・11が起きてかなり早い時期に、当時シカゴ大学の院生だった友人が頼まれてある研究者の論文を英語から日本語に訳した時、日本にいる友だちに「『ヒバクシャ』って差別語だって知らないの」と言われました。自分の責任ではなく差別される対象になったひとたちが、名乗り出て、自らのアイデンティティーとして差別語を捉え返すようになるには、どうしてもかなりの時間がかかるんでしょう。もちろん、一部ですが、被差別部落の人たちであったり、同性愛者であったり。とくにアメリカでは後者の待遇はこのところ急激に変わったけれども、長い期間にわたって隠されていました。私はいつも焦りを感じています。健康手帳を何と呼ぶかは別として、福島のヒバクシャには早く権利を主張して欲しくてなりません。

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(シカゴ大学を2012年に)退職する前の最後の学期に、シカゴと広島をスカイプでつなぐ授業をしたんです。1歳の時に被爆した方が登場してくださって、親にも「(被爆者であることは)絶対口外するな」って言われていたと。福島(原発事故)が起きてからの彼女の深い後悔は、自分たち広島の被爆者がアイデンティティーを隠さずに暮らしてきていたなら、福島(の現状)は起こらなかったんじゃないかということです。深い気のとがめがあるのが、スカイプを通して伝わってきました。だから、自分はこれから、福島から避難してきた人たちのために生涯を捧げるんだと。

福島で甲状腺がんと診断された子どもについて、セカンドオピニオンはどうなっているのでしょうか。患者の権利は守られているのでしょうか。「沈黙を強いるメカニズム」って一体何なのか、考えさせられます。いろんな要素が入り交じっていて、先ほどから触れているわけですが、まだ他にあるような気がしています。

病気が意味することに限って考えると、なにが見えてくるか。甲状腺がんはよく知られているけれど、チェルノブイリの例を見ても分かるように、がんだけではなくて、心臓疾患とか他にもいろいろあるわけです。けれども、「がんイコール死」って考えてしまうのは世界共通のことではないでしょうか。

福島の原発災害は、人々に自分の寿命、人生って限られている、ということを突きつけたわけです。

もちろん、だれもが物心ついた時から「人間は死すべきものである」と分かっているのに、漠然とした運命論でなく、かなり具体性をおびた形で直面してしまうことになってしまいました。しかも、個々人の運命というより、社会全体が同時に遭遇してしまった。生と死に向き合うことの大変さを、みんな一緒に引き受けなければならない。それが、もしかしたら、沈黙を通して語られているんじゃないかという気がします。それで、私も一人の人間としての死生観、自分も年とってきたから、死生観を深めなければならないっていう課題ができてしまいました。

いま、(米国の原爆製造に関わった)ハンフォード核施設の風下で被曝(ひばく)した人たちがNPO「コア:Consequenses of Radiation Exposure」を旗揚げして、「ヒバク博物館をつくろう」という動きを応援しています(「核の神話:8、9」で紹介)。分断されて孤立している福島の小児甲状腺がんの子らの家族と、ハンフォードのダウンウィンダーズ(風下被曝者)らが一堂に会せたら、どんなにいいだろうって切に思います。お金がないですから実現は難しいけれども、インターネットを通してでも、とにかくつながって、お互いの姿を確認して欲しいと思うのです。

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Norma Field 1947年、東京生まれ。父はアメリカ人、母は日本人。アメリカンスクール卒業後、渡米。1983年、源氏物語研究でプリンストン大学より博士号取得。2012年よりシカゴ大学名誉教授。著書に「天皇の逝く国で」(みすず書房)、「小林多喜二 21世紀にどう読むか」(岩波新書)など。福島原発災害以降、仲間と「アトミックエイジ・The Atomic Age」ブログを維持。

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たいなか・まさと 福山支局、中東アフリカ総局(カイロ)、国際報道部デスク、米ハーバード大客員研究員(フルブライト・ジャーナリスト)などを経て、核と人類取材センター記者。(核と人類取材センター・田井中雅人)

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