2016/04/11

福岡/離ればなれの家族・放射線量… 避難、残るも帰るも苦悩

2016年4月11日  朝日新聞
http://www.asahi.com/articles/ASJ416G40J41TGPB00W.html

 東京電力福島第一原発事故から5年が過ぎ、また春がめぐってきた。九州への避難者はこの間、故郷に帰還した人もいれば、避難を続ける人もいる。だが、それぞれの心には今も被災による苦悩が影を落とす。

■福岡に来たが…
家族がばらばらになるときが迫っていた。3月26日、福岡市郊外の団地。福島県いわき市から避難している渡辺春枝さん(53)の瞳が潤む。長女(23)が看護師になり、就職で東京へ。間もなく到着する宅配業者に荷物を渡せば、引っ越し作業が終わる。
単身赴任先の大分県から駆けつけた夫(55)が、つぶやいた。「福岡へ帰ってきても、娘がいないと寂しいだろうな」

原発事故後の2011年3月下旬、長男(21)を含む一家4人は春枝さんの姉を頼って福岡に来た。その年の5月、夫は福島県楢葉町の事業所から大分県の事業所に配転。長男は13年春に福岡の高校を卒業し、就職で静岡県へ移った。家族は少しずつ離ればなれになった。

原発事故前の夫の仕事には転勤がなく、工業高校生だった長男が目指す就職先は東京電力か東北電力。事故がなければ家族一緒の生活が望めたはずだった。

あれから5年。春枝さんは一人暮らしよりは大分の方がよいとも考えた。だが、避難直後、姉以外に知人がおらず、家に閉じこもっていた時期が頭をよぎる。「またゼロからのスタートか」と思うと、どうしても踏み出せない。

いわき市の自宅は国の避難指示区域ではなく、一家は自主避難を続ける。福島県は自主避難者に対する住宅の無償提供を来年3月末まで続ける方針だ。「それまでは福岡にいてもいい」と、夫は言ってくれる。しばらくは福岡で暮らし、行く末を考えるつもりだ。

■福島に戻って
震災からちょうど5年となった3月11日、福島県南相馬市立原町一中で卒業式があった。「この5年間、苦も楽もあった。今はすごく楽しい」。卒業生の一人、八巻瑠香さん(15)はそう話した。この春、福島県相馬市の高校に進学し、得意な美術を学ぶ。

原発事故を受け、一家4人は11年3月、祖父母らと計7人で福岡市に避難した。その年の夏休み明け、母の美知子さん(42)は瑠香さんの異変に気づく。朝、ぎりぎりの時間まで登校しない。笑顔も少なくなった。娘は避難先の小学校になじめずにいた。

夫(47)は仕事の都合で4月に南相馬市に戻った。元の小学校も10月に授業を再開。戻った生徒は少なく、放射線量も心配だったが、冬休みを前に美知子さんは戻る決断をした。

それから4年余。希望の道に進む瑠香さんを美知子さんも笑顔で見つめる。だが、心には澱(おり)のように不安がたまる。「被曝(ひばく)量は毎年測っているけれど、娘が母になったときに何かあったら。責任は重大です」(佐々木達也)

■まだ北九州に
「正社員 人材派遣の営業22万6千円」「パート 清掃作業係 時給780円」。小薬和三さん(59)は北九州市のハローワークで求人票に目をこらしては首を振る。「建設業を探しているけれど、少ないね」

生まれ育った福島県楢葉町を離れ、11年4月に北九州市のアパートを借りた。2LDKに妻(39)と高校2年の息子(16)、小学3年の娘(8)と暮らす。

震災前は第一原発で協力会社の現場責任者をしていた。炉心の真下で定期点検をしたこともある。多いときは月収が60万円近くになったという。楢葉町は昨年9月に避難指示が解除された。北九州のハローワークでは、福島県内での除染や交通誘導で月20万~40万円の給与をうたう求人票もある。だが、すぐ戻ろうとは思わない。放射線量が高く、子どもと一緒には帰れないと考えるからだ。「家族がバラバラになってはダメだ」。自身に言い聞かせる。

気がかりなのは収入だ。正社員の妻は3月末で退職し、小薬さん自身は思うような職につけない。

そんな小薬さんの心を支える「青写真」がある。子どもの進学や就職に合わせ、5年以内にいわき市に転居する計画だ。楢葉町より原発から遠く、線量が低い。兄一家も暮らす。

「まずは働く場。何でもいいから、夏までに仕事を決めたい」。週に1度程度、妻とハローワークを訪れ、就職セミナーに出る日々が続く。(磯部佳孝)


長女の引っ越し荷物を宅配業者に
渡す渡辺春枝さん(手前)と夫

0 件のコメント:

コメントを投稿